よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 ほどなく、女は手前の男坂の入り口に、差しかかった。
 と思う間もなく、くるりとその角を曲がって、姿を消す。
 今夜の取引は女坂ではなく、さっきくだったばかりの男坂の方、ときたか。
 人影がないのを確かめ、梢田は足音を立てないように小走りに、通りを渡った。
 入り口から、片目を出してのぞく。
 女は、まっすぐ上へ延びる男坂の急階段に向かって、すたすたと歩いて行く。階段までの距離は、女坂と同じく五十メートルほどだ。
 ただしこの道には、横からつながる路地や通路がない。街灯は、二か所にあって明るいから、隠れるとすれば左右に立つ建物の、入り口の目隠しくらいだ。
 梢田は、建物沿いに暗がりを忍び歩いて、階段の二十メートルほど手前の、コンクリートの目隠しに、移動した。
 ほかにひとけはないが、さすがに冷や汗が出てくる。女は振り返りもせず、なおもすたすたと歩いて行く。
 梢田は息をこらし、目隠しの陰から様子をうかがった。
 女は、階段の下まで行ったところで、足を止めた。腕時計を見るしぐさをする。
 階段の両側は柵で、簡単に乗り越えられる高さではない。階段は直線だが、中ほどの踊り場から上は樹木がかぶさり、視界がふさがれている。どこにも人影はない。
 と見る間に、樹木の葉のあいだから二本の足がのぞき、だれかが階段をおりて来る気配がした。
 街灯の光は遠すぎ、はっきりとは見えない。しかし、暗い色の格子縞(こうしじま)のジャケット、黒か紺のパンツといういでたちは、男に間違いないだろう。
 男は踊り場で足を止め、階段の下の様子をうかがった。前回の男より、かなり大柄だ。
 女がそれに応じて、さりげなく右手を肩のあたりまで、上げてみせる。
 そのしぐさを見て、男は右手をジャケットの内側に突っ込み、踊り場からおり始めた。 女が、前回と同じように階段を数段のぼって、男を待ち受ける。
 男は内ポケットから、灰色のビニール袋らしきものを、引っ張り出した。
 女も、革ジャンのポケットから、たたんだ札束のようなものを取り出し、男に手渡す。
 男は引き換えに、手にしたビニール袋を、女に差し出した。女は、左手でそれを受け取り、すばやくポケットに入れた。
 男が向きを変えて、階段をもどろうとする。
 その瞬間、女はすばやく男の肘をとらえた。
 男が振り向くより早く、その腕をかつぐようにして、女が体を沈める。
 男は、もののみごとに宙を舞って、真っ逆さまに階段の下のアスファルトに、叩きつけられた。苦痛の声を上げ、わずかにもがくのが見えたが、それきり動かなくなる。
 とっさのことに、梢田はわれを忘れて目隠しから、飛び出した。つんのめりながら、階段へ突進する。
 女は革ジャンから、受け取ったビニール袋を引っ張り出し、気を失った男のジャケットの上に、ほうり投げた。
 それから、身をひるがえすなり猛烈な勢いで、階段を駆け上がる。
「待て」
 梢田はどなったが、倒れた男のそばに駆けつけたときには、女の黒い影は飛ぶように遠ざかり、とちの木通りに消えていた。
 そのとき、背後から声がかかった。
「やりましたね、梢田さん。おみごとです」
 振り向くと、高梨一郎がにこにこしながら、そこに立っていた。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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