よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

                  8

 翌日の昼前。
 梢田威は、小会議室で斉木斉とお茶を飲みながら、寝不足の頭を必死に働かせていた。
 宿直の斉木は、本来なら明け番のはずだったが、前夜の騒ぎで休みを返上するはめになった。
「何度でも言うが、あの戸塚(とつか)とかいう男をやっつけたのは、残念ながらおれじゃない。あの女なんだ。おれだ、と言いたいところだが、嘘(うそ)はつけないからな」
 梢田が正直に繰り返すと、斉木は不機嫌そうに腕を組んだ。
「そう言われてもなあ。とにかく、高梨が現場に駆けつけたときには、おまえと戸塚だけしか、いなかったんだろうが」
 女にやられた男は、所持していた身分証明書から、近くの茗渓(めいけい)予備校で化学の講座を持つ、戸塚康秋(やすあき)なる人物と分かった。
 自供によると、戸塚は個人輸入した無許可の睡眠薬、精神安定剤を自分で調合し、違法の覚醒剤を製造していた、という。それを、一年ほど前から予備校生に売り始め、そのあげく最近はプロの売人にまで、流すようになったらしい。
 梢田は言い返した。
「それは、女が逃げちまったあとで、高梨が現れたからだ。だいいち、高梨のやつがあのタイミングで、偶然あそこにやって来るなんて話が、信用できるか。高梨と、例のマトリの女が示し合わせて、おれたちを利用しやがったんだ。あの女は、高梨がこっそり会ってたとかいう、マトリの捜査員に違いないよ」
 斉木は肩をすくめた。
「しかし、高梨がおまえの手柄だと言うんだから、しょうがないだろう」
 そのように決めつけられると、それ以上反論できなくなる。
 梢田はお茶を飲み、椅子の背にもたれた。
「いちおう、戸塚にワッパをかけたという意味では、おれの手柄に違いない。しかし、その戸塚をなんで保一(保安一係)に、引き渡さなきゃならないんだ。おれの手柄なら、二係で扱ってしかるべきだろう。あんたは、あの大西(おおにし)係長に手柄を横取りされて、平気なのか。いつもの、あんたらしくないぞ」
 そうけしかけると、斉木もさすがに憮然とした表情で、お茶を飲んだ。
「しかし、それがおぼっちゃまくんの方針なら、文句を言っても始まらんよ」
 前夜、証拠の覚醒剤と戸塚を確保したあと、梢田は宿直の斉木に電話して、パトカーの出動を要請した。
 高梨一郎と二人で、戸塚を御茶ノ水署に連行するあいだに、斉木は生活安全課長の立花信之介(たちばなしんのすけ)に、電話連絡したらしい。
 立花は、そのとき学生時代の友人と、新橋で会食中だったそうだが、間なしに署へもどって来た。
 報告を受けたあと、立花は斉木を打ち合わせ室に連れ込み、しばらく話し込んでいた。
 その結果、この一件を保安一係の高梨の扱いにする、と言われたそうだ。少なくとも梢田は、そう聞かされた。
 もっとも、斉木がそれをおとなしく受け入れた、というのは納得できなかった。
 あるいは、木下太郎から連絡があったとき、劣勢だった将棋を勝手に崩し、梢田一人に処理を任せたことで、負い目があったのかもしれない。
 しかし、それならなおさら梢田の手柄を、保安一係に譲ったりしないはずだ。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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