よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 梢田は、椅子から体を起こして、テーブルに肘をついた。
「考えてみりゃ、ゆうべまたまた取引現場に、高梨がのこのこ姿を現したのが、どだいおかしいよな。もしかすると、おれたちは保一の連中の陰謀の片棒を、かつがされたんじゃないのか」
 斉木は、組んでいた腕をほどいて、薄笑いを浮かべた。
「その、連中というのが保一だけなら、おれも黙っちゃいないさ」
 梢田は斉木の顔を、つくづくと見直した。
「保一のほかに、マトリの女がからんでるからか。高梨が密会していた、とかいう」
「ゆうべの女が、五本松の見たマトリの女だ、という証拠は何もないぞ。それに、ゆうべの女と前回のけばい女が、同一人物だと断言する根拠もない。たとえ、背格好や体つきが似ていても、それだけじゃ証拠にならんだろう」
「マトリかどうかはともかく、前回の女と今回の女は、同一人物に違いないぞ。店で相手をした、木下が見破ったんだからな」
 梢田が言いつのると、斉木はしぶとく首を振った。
「木下も、二人の素顔を見たわけじゃあるまい。せいぜい、似ていると思っただけかもしれん」
「どっちの女も、女坂と男坂の違いがあるだけで、そっくり同じ取引をしたんだ。相手の男は違ったが、まるで判で押したようなやり方じゃないか」
「しかし、前回は女が高梨をどやしつけて、相手を逃がした。今回は、逆に相手を投げ飛ばして、自分だけ逃げた。しかも、受け取ったクスリをそいつの上に、投げ捨ててな。おまえ、ないしは高梨に、わざと逮捕させたわけだ」
 斉木の指摘に、梢田も首をひねった。
「確かにおれも、そこがおかしいと思う。あの女、なんで今度は自分だけ、逃げ出したのか。それに、くどいようだが、なんでまたあそこに、高梨が現れたのか。分からんことだらけだ」
 斉木は、お茶を飲み干した。
 考えながら言う。
「前回、女坂にやって来た若造は、たぶん様子を見るための、使い走りだろう。おそらくはマトリ、ないし警察のおとり捜査だった場合に備えて、戸塚もおとりを差し向けたに違いない。最初の若造が持って来たのは、たぶんクスリに似たザラメとか、うどん粉とかのたぐいだ」
 梢田はぴんときて、人差し指を振り立てた。
「分かったぞ。そうした場合に備えて、女の方も高梨を相手に、一芝居打ったんだ。つまり、飛び出して来た捜査官の高梨を、フェイクの瓶で殴り倒してみせた、あれがそれだ。おとり捜査じゃないことを、相手に印象づけるための臭い芝居よ」
 斉木が、満足そうにうなずく。
「まあ、そんなとこだろう。どっちにしても、それで女をすっかり信用して、翌々日すぐ目と鼻の先で、同じように取引する単純なところが、いかにもおそまつだな」
「戸塚は、予備校で化学を教えているそうだが、クスリは作れても売り方を知らない、能天気な野郎さ」
 梢田が決めつけると、斉木は頬を引き締めた。

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

Back number