影のない女(後編)
逢坂 剛Gou Ousaka
「しかも、近場の九段下(くだんした)にマトリが控えているから、ほかの商売仲間もこの近辺には、近寄らないとくる」
斉木も、力強くうなずく。
「この界隈はいわば、聖地になっているわけだ」
「だとすると、この街も今後クスリ関係の事件が、どんどん増える寸法だな」
興奮して言うと、斉木は梢田の胸元に、指を突きつけた。
「ばかもの、喜んでる場合じゃない。そんな状況下で、手柄を全部保一に持っていかれた日には、おれたちの立場がなくなるだろう」
「それを阻止するために、おれたち二係もクスリ専門の捜査員を、補充しなきゃなるまいな」
梢田が応じると、斉木は指を引いた。
「そうは言っても、急には無理だ。そこで今回、おぼっちゃまくんはかねて知る、マトリの女と裏で話をつけて、おれたちをバックアップしたに違いない。少なくとも、おれはそう読んだ」
「ほ、ほんとか。あれはやはり、マトリの女だったのか」
梢田が乗り出すと、斉木はあわてて体を引いた。
「そうじゃないか、と当たりをつけただけさ。おぼっちゃまくんは、それについては何も言わないんだ」
つい、かくんとなる。
「なんだ。やっぱり、あんたの妄想か」
「とにかく、おぼっちゃまくんが保一にだけ目をかけて、おれたち二係をほっとくはずがない。そんなえこひいきをしたら、署全体の士気にも関わるからな」
梢田は、気持ちを落ち着けるために、すわり直した。
「もう一度整理しよう。今までの話からすると、高梨がこっちへ来てすぐに事件が起きたのは、木下が〈ブライトン〉を新規開店したことと、無関係じゃないはずだ」
斉木が、ダックスフントそっくりの、間延びした顔を前に突き出す。
「もちろんだ。高梨は、木下に因果を含めて戸塚に連絡を取らせ、ある筋の女がクスリを買いたがっている、と伝えさせた。その結果、さっそく女坂で取引する段取りに、なったわけだ」
一息いれたので、梢田はすかさずあとを続けた。
「ところが、戸塚の側もさすがに用心して、最初は使い走りの学生か何かを、様子見に送り出した。罠だったとしても、本物のクスリさえ持ってなけりゃ、逮捕できないからな。ところが、マトリの女も高梨もそれを承知で、二人で示し合わせて一芝居打った、というわけだ。罠でないことを、印象づけるために」
斉木がうなずく。
「まあ、そういう流れだろうな。それで間なしに、本物の取引に応じるってところが、しろうとたるゆえんだ。まして元締めの戸塚が、いきなりのこのこ出張って来るとは、どしろうともいいとこだ」
梢田は、冷えたお茶を飲み干した。