よみもの・連載

御茶ノ水署シリーズ

影のない女(後編)

逢坂 剛Gou Ousaka

 小百合は、見た目はきゃしゃな体つきをしているが、柔道空手剣道に合気道と、武道ならなんでもござれのつわものだ。
 当時、手ごわい犯人の逮捕に当たるときなど、小百合はにわかにたてがみ女に変身し、松本ユリになりきって徹底的に、相手をぶちのめすのだった。前夜のように、戸塚を投げ飛ばして昏倒(こんとう)させるなど、朝飯前のわざといってよい。
 ただ、その事実を知っていたのは、御茶ノ水署では梢田だけだった。斉木もほかの署員も、そのことにまったく気づいていなかった。
 しかるにあるとき、いかにもワイルドなユリのいでたちに、あろうことか斉木が惚(ほ)れてしまうという、予想外の珍事が出来(しゅったい)した。
 一目惚れした斉木は、古書市で働くユリにしつこくつきまとい、部下の小百合を大いに困惑させた。しまいには、一人二役のからくりがばれそうになり、にっちもさっちもいかなくなった。
 苦肉の策で、梢田はユリがアフリカの西部に位置する、ブルキナファソとかいう国へ留学し、その後、現地で結婚して永住することになった、と嘘をついた。
 それでようやく、斉木をあきらめさせたのだった。
 それ以後小百合は、一度もユリに変身していなかった。少なくとも、前夜までは。
 その松本ユリが、突然また御茶ノ水に姿を現したのだから、梢田が肝をつぶすのは当然だ。
 最初に〈ブライトン〉で、ただのけばい化粧姿を目にしたときは、斉木はもちろん梢田自身も、ユリだとは気づかなかった。
 しかし、前夜の二度目の扮装を目にしたら、斉木はそれがあの松本ユリだ、と見抜いたかもしれない。将棋で後れをとり、ふてくされて署に残ったのが、ユリと梢田にはさいわいしたのだ。
 ようやくショックが収まり、梢田は頭の中を整理するために、二杯目のお茶を飲み干した。
 気持ちを鎮めて言う。
「おれにあいさつもなく、なんでまたブルキナファソから、もどって来たんだ」
 その問いに、小百合は面目なさそうな顔をした。
「立花課長から、新任の高梨巡査部長を歓迎するのに、保安二係として手を貸してやってほしい、と言われたんです」
「係長やおれに、黙ってか」
「ええ。斉木係長は、保安一係の大西係長と仲が悪いし、ぜったいにうんとは言わない。梢田さんだって、係長に気を遣って断わるでしょう。それで五本松に、お鉢が回ってきたんです。五本松も、お二人に黙って一係に手を貸すのは、あまり気が進みません。それでしかたなく、松本ユリを呼びもどした、というわけです」
「しかし、こうやっておれに打ち明けたら、同じことじゃないか」
 梢田が言うと、小百合は媚(こ)びるように上目を遣い、顔をのぞき込んできた。
「梢田さんは、口が固いからだいじょうぶ、と思って」

プロフィール

逢坂 剛(おうさか・ごう) 1943年東京生まれ。80年「暗殺者グラナダに死す」で第19回オール讀物推理小説新人賞を受賞。86年に刊行した『カディスの赤い星』で第96回直木賞、第40回日本推理作家協会賞、第5回日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2014年、第17回日本ミステリー文学大賞を受賞。15年『平蔵狩り』で第49回吉川英治文学賞を受賞。「百舌」シリーズ、「御茶ノ水署」シリーズほか著書多数。

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