連載
沖縄はどう生きるか
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地 佐野眞一 Shinichi Sano

 大田は毒舌の人でもあった。以前、仲井眞弘多について聞くと、言下にこんな答えが返ってきた。
「仲井眞くんは僕が知事の時代の副知事だった。彼の仕事は僕のことを日本政府に密告することだった。そんな男だったけど、副知事の後、失職したというので気の毒に思い、沖縄電力の社長にしてあげたのは僕なんだ。でも、彼は礼にもこなかった。無礼な男です」
 調べてみると、大田の言う通りだった。
 大田は軍用地の使用に関して地主に代わって知事が署名押印する代理署名を拒否するなど、本土政府の意向に真正面から逆らった。その意味では突出した政治家だった。
 大田がいかに沖縄を愛していたかは、彼の膨大な著作を読めばすぐにわかる。大田は政治家というよりも優れた政治学者だった。そしてとんでもない酔っ払いだった。
 偶然にも酒席で隣のテーブルにいた大田に、「あー、僕の悪口を書いた人だ」と言われ、次の約束があったので、先に席を立ったところ、「キミは知事に挨拶もなしに、先に帰るのか」とさらにからまれて苦笑いしたことを覚えている。
 大田はそのときとっくに知事を辞めていた。だがいつまでも知事と思っているらしいところが、私には稚気愛すべき男と感じられた。
 大田はそういった酒席ではからんできても、インタビューを申し込めば断ったことは一度もなかった。私の著書の文庫版(そこには大田にとってあまり耳障りのよくない記述もたくさん入っている)の解説も快く引き受けてくれた。その懐の深さが、大田の魅力だった。
 大田は酒席では沖縄特産の泡盛(あわもり)は飲まず、いつも「スカッチ(大田はそう発音する)のソーダ割り」だった。戦後最初にアメリカの大学に留学した「米留組」のトップバッターという自負心が、大田に「スカッチのソーダ割り」の飲酒習慣をつけさせたのだろう。
 安倍や翁長のあまりにも通りいっぺんの弔辞にうんざりして途中で帰ろうかと思っていると、最後に友人代表として比嘉幹郎(ひかみきお)の挨拶があった。
 比嘉は大田の前の西銘順治元沖縄県知事の副知事だった男である。比嘉も大田と同じ「米留組」の一人である。
 比嘉は大田の大きな遺影の前に進み出ると、声をつまらせながらこう語り出した。
「六十有余年のよしみで、いつも通り『大田さん』と呼ばせてください。大田さんは私のことを『ミキ』と呼んで親交を深めていただきました。大田さんのお伴をして(多くの方々と)飲食し、歓談したことは私の脳裏に深く刻まれています。もうこれから二人でステーキやマグロの中トロを食べたり、シーバスリーガルの十八年もののソーダ割りを飲んだりして夜の那覇市内を歩き回れないと思うと寂しくてなりません」
 安倍や翁長の退屈な挨拶とは違って、会場はシーンと静まり返り、比嘉の情念のこもった声だけが響いた。
「寂しくてなりません」という言葉は、もう涙声だった。
 比嘉は大田の功績として、糸満(いとまん)市の「平和の礎(いしじ)」や、南風原(はえばる)町の県立公文書館の建設をあげた後、最後にこう言って追悼の辞を締めくくった。
「大田さんは個性的で我が強く、好き嫌いも激しかったとも言われますが、もともと義理堅く人情味豊かな方でした。大田さんを敬愛する私共はご遺志を尊重して、今後とも沖縄県民に対するいかなる差別や犠牲の強要にも反対し、世界の恒久平和と沖縄県の発展のために頑張ることを誓います。天国の友人たちとご一緒に安らかにお眠りください」
「我が強く、好き嫌いも激しい」。故人のそうした弱点をあげながら、大田の人柄が伝わってきたのは、比嘉と大田の関係が他人にはまったく窺い知れないほど深かったからだろう。
「安らかにお眠りください」という比嘉の最後の言葉は、嗚咽まじりになって、よく聞き取れなかった。
 この心のこもった挨拶を聞けただけでも、大田の葬儀に東京からわざわざ駆けつけてよかったと思った。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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