連載
沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

 谷川は先島諸島では別れのとき、島人は決して「また来てください」とは言わなかったとも述べている。
 再会を約束する言葉を先島の人びとが絶対に言わないのは、島人がそれがウソだということを長年の経験で知り抜いているからである。これもまた孤島苦(沖縄では島ちゃびという)を物語る悲しすぎる話である。
 谷川はまた、日本と沖縄の関係を同論考でこう結論づけている。

〈薩摩藩は沖縄のむざんな収奪の上に明治維新の原動力を蓄積してきたし、第二次世界大戦の日本は沖縄のおびただしい流血の上に本土決戦を免れることができたし、戦後の日本は沖縄の屈辱と生命の危険の上に高度の経済発展をとげた〉

 日本近代文化研究者のノーマ・フィールドという日本近代文化を専攻する女性研究者は、昭和天皇の死を沖縄県民はどう受けとめたかを考察しながらフィールドワークした『天皇の逝く国で』(みすず書房)というユニークな本を書いている。
 プリンストン大学大学院出身の彼女は、同書で沖縄について「琉球、沖縄という名称は、古くから『よそもの、劣ったもの』という徴しを帯びていた」と述べ、こう続けている。

〈これら五十余の島々、海の宝石が、日本の一部になったのは最近のことでしかない。十五世紀初頭に琉球王朝のもとに統一された島の人びとは、ひろく海を巡り、日本、中国、朝鮮、東南アジア各地との交易で繁栄し、独自の織物、染色、舞踊、音楽をゆたかに発達させていた。それが十七世紀はじめ、王国は南西日本の島津藩の支配に屈して、琉球人は、江戸の将軍の強力な臣下のそのまた臣下になったのである。一八六八年、江戸は東京となり、翌年、江戸城は、明治天皇と死後に呼ばれるようになる若者を迎えて宮城(きゅうじょう)となる。九年後、明治政府は、中央集権化した官僚制国家機構のなかに沖縄県を組み込み、東京の熱心な近代主義者は、自分たちが西洋にたいして抱く不安を沖縄に投影したのだろう、まるで知恵おくれの子どもをきびしく躾けるような態度で遇した。太平洋戦争の末期には、日本本土と天皇のために敗北を少しでも遅らせようとした戦略が、ひとり沖縄県だけを地上戦にさらした。降伏後、死屍累々の焦土と化したこの島は、無期限のアメリカ軍占領下に置かれて、ふたたび琉球の名で呼ばれるようになる。この状態は一九七二年までつづき、島はようやくまた沖縄県として日本に再統合された。この措置は、いかにもとりつくろった無邪気さをもって「返還」あるいは「復帰」と称されるのだった〉

 沖縄の置かれた状況が過去から現在まで手際よくまとめられている。それは、日本人のように先入観にとらわれない外国人研究者の視点のせいだろう。特に日本が沖縄に対し、「知恵おくれの子どもをきびしく躾けるような態度で遇した」という仮借ない言い回しは外国人でなければ絶対にできない表現である。
 彼女は同書の中で「沖縄が日本を『本土』と呼ぶのはおかしな話である。この呼び方は、沖縄の二重の孤立を端的に物語っている。島国としての自負と不満をなにかと示したがる日本の、そのまた離島県である孤立を」とも述べている。
 この意見にもまた、日本人にはない斬新な発想を見ることができる。私たちはステレオタイプ化された沖縄論からそろそろ脱却してもいい頃である。
 先島の人々を塗炭の苦しみに突き落とした人頭税の話に戻れば、首里王府が先島諸島に課した人頭税が、後述する謝花昇(じゃはなのぼる)らの自由民権運動家らによって廃止されるのは、施行から実に250年以上後の明治30年代のことだった。
 悪名高き人頭税がこれほど長きにわたって続いたのには、わけがある。
 謝花昇ら自由民権運動家を徹底的に弾圧したこれまた悪名高き薩摩藩出身の沖縄県知事を16年もの長きにわたって務め「琉球王」の異名をとった奈良原繁(ならはらしげる)が、悪政の限りを尽くしたからである。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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