連載
沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

奈良原繁と清水次郎長の奇妙な関係
 奈良原は明治17(1884)年に、日本鉄道(現・JR)社長に抜擢され、明治25(1892)年には宮中顧問官に任ぜられた。日本鉄道の社長に就任する前年には、静岡県令(知事)となっている。
 この時代の奈良原の事跡で特筆すべきは、広沢虎造(ひろさわとらぞう)の浪花節「東海遊侠伝」で一躍スターダムにのしあがった海道一の大親分と謳われた清水次郎長との奇縁である。
 ここで沖縄とは全く関係のない次郎長のことを述べるのは、沖縄県知事になった奈良原繁との関係もあるが、人は好むと好まざるとにかかわらず時代によって翻弄される存在であることを知ってもらいたかったからである。
 人と生まれた以上つきまとって離れないこの人間の悲喜劇は、幕末維新期も現在も全く変わらない。
 清水次郎長こと山本長五郎は、文政3(1820)年、駿河国有渡郡清水の美濃輪町(現・静岡市清水区美濃輪町)の船頭の家に生まれた。
 次郎長は家業に従事する一方、博奕(ばくち)にも走り、武闘派の博徒となって次郎長一家を構えるようになった。
 その次郎長が社会事業家に変身するきっかけをつくったのは、明治維新だった。旧幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)に率いられた旧幕府艦隊の旗艦、咸臨丸(かんりんまる)が暴風雨により、房州沖で破船し、修理のため清水港に停泊した。その後、新政府軍との戦いで乗組員は戦死した。
 次郎長は逆賊船としてそのまま駿河湾に放置されていた咸臨丸内の遺体を小舟を出して収容し、丁重に葬った。
 この義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は、次郎長と意気投合した。山岡鉄舟は江戸城の無血開城に尽力した勝海舟や徳川慶喜(よしのぶ)の身辺警固にあたった高橋泥舟(たかはしでいしゅう)などと並んで「幕末の三舟」と呼ばれた男である。この山岡との出会いが、次郎長をして旧幕臣救済のため、明治維新後に富士の裾野の開墾に乗り出させるきっかけとなった。
 次郎長と奈良原が知り合う縁となったのは、明治16(1883)年に奈良原繁が静岡県令となったことである。
 奈良原は翌明治17年2月、有名な博徒の大刈込を断行した。明治維新期にあっては、権力者側にとって何かと重宝だった博徒も、維新が成ると、不平分子と結びつきやすい博徒はいつ権力側に牙をむくかわからない危険な存在に変わった。
 当時静岡県内で発行されていた「静岡大務新聞」は、次郎長逮捕の報を次のように伝えている。
 以下の引用は「東海近代史研究」第5号に掲載された水谷藤博の「明治十七年の博徒大刈込」に依拠していることを最初に断っておきたい。

〈―治(ママ、以下同)郎長拘引―当岡にて有名の侠客有渡郡清水港に住む治郎長(山本長五郎)は昨二十五日当警察署にて捕縛拘引、又其子分の頭たる者も三、四名拘引したるよし〉(明治17年2月26日付)

 翌2月27日付の「静岡大務新聞」は、こんな続報を打っている。

〈前号に清水の治郎長が拘引になりし事を記せしが同日即ち一昨日二十五日同港に住む博徒の親分箕輪千右ヱ門と云ふが縛に就き拘引になり、尚其他同時に各警察署にて捕縛になりし、又警察官吏が治郎長の家宅を捜索し、鎗一本、薙刀二本、長巻三本、和筒砲二挺、ゲベール銃二十三挺、刀八十本、其他賭博の器具等数品を引き上げしと云ふ〉



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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