清水次郎長は逮捕されてから約1か月後の4月7日に、処罰が言い渡されている。翌8日、当時静岡県内で発行されていた「函右日報」は、次郎長の肩書きをこう伝えている。 〈任侠を以て名高かりし治郎長(山本長五郎)外一名は昨七日当警察本署に於て左の如く宣告されたり 静岡県駿河国有渡郡清水町平民 農間薪炭商 山 本 長五郎〉 次郎長の職業が薪炭商となっているのは、博徒大刈込が行われる5年前の明治12(1879)年、次郎長が前掲の山岡鉄舟らの協力を得て、油田開発に乗り出しているからである。また次郎長はこれより前の明治9(1876)年には、静岡特産のお茶を海外販売するためには語学教育も必要と考えて、清水町に英語塾も開設している。 次郎長が単なる時代遅れの「博徒」ではなかったことが、この経歴だけでもわかる。次郎長の処罰内容を伝える「函右日報」は、こう続けている。 〈其方儀数十年来賭博ヲ以テ業トスルノミナラズ〈中略〉家宅ヨリ発見シタル賭具等の(ママ ノ)衆証ニ依リ(筆者注・博徒行為は)明白ナリトス依テ賭犯(ママ 博)犯処分規則第一条二項ニ拠リ懲役七年過料金四百円ニ処ス〉 何の裁判も審理もない、いわば抜き打ちの重刑だった。この判決を聞いた次郎長はこんな捨て台詞を吐いたという。 「この長五郎はとうの昔に足を洗って堅気になり、お国の為になる仕事をしてほめられている人間だ。それを牢に入れるとは怪しからぬ。今に見てろ、俺が出たら県令の奴ブチ殺してくれる」(『人間清水次郎長』戸田書店) しかし、そう息巻いたとて、もう完全に後の祭りだった。清水次郎長こと山本長五郎は、この異常に重い刑を宣告されて、静岡県の井之宮監獄(現・静岡刑務所)に収監された。 「明治十七年の博徒大刈込」を書いた水谷藤博は、前掲の「東海近代史研究」(第5号)で、この重い刑についてこんな考察をしている。 〈まず次郎長の場合、「懲役七年、罰金四百円」という、規則のうちでは、かなり重い刑罰に処せられているが、その「言渡」の中に「数十年来賭博ヲ以テ業トスルノミナラズ」とあって、その罪状が旧幕時代にまで遡及して、その対象とされたことは、彼にしてみれば、慶応四年三月、大総督府判事伏谷如水の意をうけて、東海道探索方をつとめ、また明治七年には大迫県令や山岡鉄舟のすすめで、富士の裾野の開墾事業に着手するなど、進んで体制側に協力する姿勢を示していた矢先のことだけに、その処分申渡しは、慮外のことであったはずである〉 時に次郎長64歳。老いの身にとってはきつい処分だった。