清水次郎長をスターダムにのし上げた「東海遊侠伝」 ここで若干の注釈がいるだろう。慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いをきっかけに、「官軍」を称する東征軍は、2月15日、京都を出発し、徳川家のお膝元の静岡県駿府に到着した。 それまで東征軍の大総督は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王だったが、3月22日になって、東征軍の差配役は、浜松城の家老だった伏谷如水(ふせやじょすい)がつとめることになった。 その如水の呼び出しを受けて次郎長は街道警護役という大役を任せられた。この抜擢によって、次郎長の積年の罪科すべてが免除されたばかりか、平民としては破格の帯刀も許されることになった。 次郎長の73年の生涯を肖像写真入りで余すことなく伝えた前掲の『人間清水次郎長』に、井之宮監獄に収監された時代の次郎長にふれている部分がある。 〈監獄での次郎長は、この仕打ち(筆者注・懲役7年、罰金400円)に対し、かんかんになって腹をたてたに違いないのだがすでに人格円満になっていた彼は、それを表面に出さず、模範囚として刑に服していた。また、鉄舟の口添えもあって、獄内では非常に優遇されたらしい。(中略) 翌年(筆者注・明治18年)九月、静岡地方は台風に襲われたが、その時の暴風雨で監獄が倒壊し、次郎長は大怪我をした。そして一一月には特赦放免となったのである。出獄の時には、出迎えの人々が東海道の街道を何町となく続いて、清水まで送ったということである。 その後(次郎長が出所する前年の明治17年に)、日本鉄道会社の重役におさまっ(てい)た(筆者注・正しくは社長)元(静岡県)知事の奈良原繁は、清水を訪れて次郎長をまねき、 「以前は事情がさっぱりわからないままに、お前さんを監獄へ入れてしまい、大へん申しわけなかった」 と詫びたという後、 「ついては、こんど東海道へ汽車を通すことになったが、金も儲かることだし、お前さんにこの地方の工事を請負ってもらおうと思うが、名儀人になってもらえないだろうか」ともちかけた。しかし次郎長は、 「お上の御用で、金を儲けるなんてことは、おれには出来ない」 と一蹴してしまった〉 という。 この記述自体が浪花節仕立てになっているので、どこまで信用してよいかわからない。しかし、「お上の御用で、金を儲けるなんてことは、おれには出来ない」という台詞には、幕末維新を侠客としてくぐり抜けてきた清水次郎長の度胸のよさと大衆受けする人気の秘密が凝縮されている。 お上(かみ)の言うことを聞かないアウトローはいつの世も庶民のヒーローである。 残念ながら沖縄には、まだ次郎長に比肩できるほどのヒーローは生まれていない。 一方、幕末維新期を薩摩藩の血気にはやる若者として何度も白刃の下をくぐり抜け、一転して、明治政府の高位高官となった奈良原繁は、アンチヒーローを絵に描いたような世渡り上手だった。