国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏が書いた『清水次郎長―幕末維新と博徒の世界』(岩波書店)というユニークな本がある。 次郎長が下獄した明治17年に出版された同書によれば、清水次郎長の名が広く世間に知れ渡るようになったのは、磐城平(いわきたいら)藩士の天田愚庵(あまだぐあん)が次郎長の数奇な生涯を描いた「東海遊侠伝」を、出版してからだという。 天田愚庵は戊辰戦争で家族のほとんどを失くし、戦乱で行方不明となった父母や妹らを探しながら日本全国を放浪した。 前出の高橋敏の別書『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店)のはしがきには、天田と次郎長の奇跡的な邂逅(かいこう)が小説タッチで描かれている。 〈天田愚庵(中略)は戊辰戦争を磐城平藩士として闘い、敗れては行方知れずとなった父母と妹を求めて彷徨する青年。漂泊の旅の途中で、本来は畳の上では死ねない野垂れ死に当たり前の、歴史の闇に泡と消えるはずの、博徒の大親分清水次郎長に邂逅する。無宿渡世のアンダーグラウンドの悪の染み込んだ侠客アウトローの一代記が、敗れし東北の一小藩出身の漂泊の文人青年によって文に留められたのである〉 漂泊の旅を続ける文人青年の天田愚庵が、ようやく落ち着き先を見つけるのは、明治11(1878)年、山岡鉄舟の勧めによって清水次郎長に預けられてからである。 清水次郎長の養子となった天田愚庵が書いた「東海遊侠伝」は、一説には養父次郎長の早期釈放を願って出版されたものだとも言われている。 この話の真偽のほどは定かではない。しかし、「東海遊侠伝」はその後浪曲となって、広く人々の口の端にのぼるようになり、清水次郎長の名は瞬く間に全国化していった。 「文芸」が持つ力の強さにあらためて驚かされる。それは翻って、幕末維新という巨大な社会変動がもたらした「時代の力」でもあった。 翻って現代沖縄の「文芸」を見渡せば、「東海遊侠伝」のように多くの人々の心をとらえた作品があるとは思えない。 辺野古新基地建設反対のシュプレヒコールの声は大きいが、これはいくら大きくとも人々の心に沁みいる「文学」になりえない。 仁侠の世界の物語と基地に囲まれて暮らす人々の物語を一緒にしないでほしいという人もいるだろう。 だが私が言いたいのはそうしたジャンルの問題ではない。「文芸」の持つ力がどれだけ多くの人たちの心に浸透してきたかという問題である。 その意味では、沖縄の「文芸」の力は、「東海遊侠伝」が多くの人々に与えてきた力にはまだ達していない。 それは私には、米軍駐留問題がまだ本土の幕末維新並みの歴史になっていない証拠のように見える。それが沖縄人や日本人の血となり肉となって、全身の怒りを脈動させる力になるにはまだまだ時間がかかるだろう。 いずれにせよ、清水次郎長はこの口承文芸によって、単なる地回りのヤクザから東海一の侠客の大親分にまで偶像化されていった。 重要なことは、それは奈良原繁に代表される公権力の遠く及ばない世界で起きた出来事だったということである。 こうした関係は、本土とアメリカの政治力学から生まれ、今も維持されている米軍基地と、その現実をなるべく見ないように生きようとしている沖縄の民衆の逞(たくま)しくも悲しい姿を連想させないでもない。