麒麟児と呼ばれた沖縄初の県費留学生 奈良原繁が沖縄県知事に就任したのは、明治25(1892)年7月20日のことだった。この年は、GE(ゼネラル・エレクトリック社)が設立され、アサヒビールが発売され、芥川龍之介が生まれている。 官選の知事としては4代目の沖縄県知事だった。その就任期間は明治41(1908)年4月6日までと、実に16年の長きに及んだ。 沖縄県知事を退いて8年後の大正5(1916)年、奈良原は『南島夜話』(沖縄実業時報社)という沖縄の思い出を綴った本を書いている。題字を書いたのは右翼の大立者として知られる頭山満(とうやまみつる)である。 こう書くと、いかにも立派そうな本に思えるかもしれない。だが、内容は空疎の一語に尽きる。 十八番(おはこ)の「寺田屋騒動」の自慢話から始まって、自分がいかに沖縄のために粉骨砕身の努力をしたか、自分は中央政府の要人たちとどれだけ親しいかなどといった第三者にとってはどうでもいい話が、拙劣な文章で延々と述べられている。 その中に、「勧学の歌」という奈良原自作の歌詞が紹介されている。 〽我沖縄は昔より 龍宮城と唱へられ 南の海の島なれば 霜だにおかず寒からず 五日の風に十日の雨 げにこそ安楽世界にて 励む人には幸福も 亦浅からぬ国なれや この歌詞を読む限り、血気にはやる人生を送った奈良原には散文や詩の才能は宿っていなかったようである。 奈良原男(男爵の爵位を受けたところからこう称される)に先天的に備わっていたのは、乱暴者の血筋だけだったといってよい。 奈良原男はこの自作の歌を、故郷自慢の薩摩琵琶を弾きながら割れ鐘のような声で放歌高吟したという。それを聞かなければならない者たちにとっては、はなはだ迷惑な話である。 明治の廃藩置県以降、奈良原ほどマイナスの遺産を残した知事はいない。 ここからは、そんな奈良原と対照的な人生を送った謝花昇について筆を進めていきたい。 沖縄自由民権運動の父と呼ばれた謝花昇は、慶応元(1865)年9月28日、沖縄本島南部の東風平(こちんだ)村(現・八重瀬〔やえせ〕町)の農家で四男三女の長男として生まれた。奈良原より31歳下である。 謝花昇が生まれる12年前の嘉永6(1853)年には、ペリーが水や食料等を求めて琉球に立ち寄っている。謝花もまた、幕末維新が生んだ子だった。 謝花が育った頃の沖縄県令は、初代県令の鍋島直彬(なべしまなおよし)の人材教育重視の政策を受け継ぐ、二代目県令の上杉茂憲(うえすぎもちのり)だった。 上杉は明治政府に対し、県費派遣留学制度を上申し、明治15(1882)年、最初の県費留学生5名を東京に送った。 そのうちの一人が東風平小学校では麒麟児と呼ばれ、開校したばかりの沖縄県師範学校に入り、同校の第一期卒業生となった謝花昇だった。ちなみに、謝花以外の4人の県費留学生はすべて士族の出身だった。 謝花ら5人の留学生は明治15年11月16日に那覇港を200トンの平安丸に乗り込んで出航し、実に18日間もの長い船旅を経て12月3日、目的地の東京に着いた。 謝花が入学したのは学習院の中等科だった。ここでの謝花の成績は素晴らしく、全校生徒の憧れの的だったという。 学習院中等科に在学中、謝花は自由民権運動家の中江兆民(なかえちょうみん)の教えを受けた。中江から受けた影響は大きく、これが後に杣山(そまやま)問題で、沖縄県知事の奈良原と激しく対立する伏線となった。 上京して3年後の明治18(1885)年、謝花は農商務省所管の東京山林学校に入学した。東京山林学校はその後、東京農林学校と改称され、明治23(1890)年9月、帝国大学と合併して帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)となった。 この時代、謝花の成績は常にトップだった。勉学が得意だっただけでなく、謝花はスポーツにも秀で、棒高跳びが特に優れていた。 謝花は帝国大学農科大学を明治24(1891)年に卒業し、沖縄初の農学士となった。そして、沖縄県庁の技師として、郷里に帰ることになった。