奈良原繁が沖縄県知事として赴任してくるのは、その翌年のことである。専制王と呼ばれた奈良原と沖縄自由民権運動の父といわれた謝花の対立は、ここから始まった。 昭和10(1935)年に出版された親泊(その後、大里と改姓)康永の『義人謝花昇伝』(新興社)は、謝花とことごとく対立した奈良原の暴政を口を極めて批判している。 〈奈良原の秕政(筆者注・ひせい=悪政)の最大なるものは、先づ沖縄を薩摩化し、薩摩の勢力によつて沖縄を壟断し薩摩藩の支配を近代的な形式で復活させたことである。 彼は沖縄の官公吏を悉(ことごと)く鹿児島県人でかためようとした。殊に彼はその家の子郎等で、沖縄の官界を埋め、あたかも専制王の様な気持で支配した。奈良原の眼中には、沖縄県人がない。彼はたゞ隷属者、被支配者として沖縄の県民を睥睨した〉 同書はこれを手始めに、奈良原の鹿児島県人優遇政治は、教育界、経済界、官界にも及んでいると述べている。そして沖縄に鹿児島出身の御用商人が跋扈(ばっこ)し、鹿児島出身の教師や役人が圧倒的に多いのも、奈良原の悪政のせいだとしている。 特に興味深いのは、「独占遂に警官に及ぶ」という一項である。この稿の中に昭和7(1932)年4月27日付の「琉球新報」に載った「鹿児島系巡査の圧迫に抗して」という記事が引用されている。 〈その時代の警察界は殆んど鹿児島県出身者で占め、県出身者は僅々四五十名であつたと記憶する、(中略)当時日清、日露の間に戦火が交へられるや、沖縄県附近を(清国やロシアの)敵艦が通過しはしないかと、波上(なみのうえ)や、三重城(ミーグスク)に望楼を設け巡査が徹宵交替して見張りをしたものだ、其の際本県出身の巡査が一寸気を弛めたり、居眠りでもしようものならそれこそ大変で、待罪書(今でいふ始末書)を提出し減俸させられたものだ。他県人には寛大であつたことは勿論である。こんな事は一例で何かにつけ虐げられた。その甚しきに至つては「県出身巡査は巡査部長や警部に登用相成らず」と言つた様なことが、明文にこそないが実際には可なり久しい間内規として適用されてゐた。(後略)〉 この引用を受けて、同書は、奈良原の権勢はとどまるところを知らず、沖縄総督の名をほしいままにした、と記している。