連載
「沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

あの板垣退助に直談判した沖縄知事更迭運動
 開墾主任を解任されて4年後の明治31(1898)年夏、県職員を辞した謝花は上京し、政府中央を動かして独裁者・奈良原を排斥する思い切った挙に出た。
 このとき謝花は東京の同志に次のように語っている。

〈奈良原は公盗である。彼と彼の仲間は開墾政策といふ美名で沖縄の山林を荒廃させ、しかも肥沃した所はみんな自分等で取つてしまつた。人事行政といへば丁度植民地の総督でもあるかの様に自分の乾児ばかり要職に据えて、県人の進路は塞いでしまつてゐる。農民は塗炭の苦しみに陥つてゐるのに之を訴へるべきところがない。自分はこれからなお進んで民権運動を起こし、参政権を獲得して藩閥に対抗し、県民の輿論を反映させなければならない〉

 謝花が訴えたのは、時の内務大臣で、「板垣死すとも自由は死せず」の名文句で知られる自由民権運動の象徴的人物の板垣退助(いたがきたいすけ)だった。
 だが、大隈重信(おおくましげのぶ)を首班とするいわゆる隈板(わいはん)内閣は同年11月に倒壊し、謝花の願いは叶わなかった。そればかりか、奈良原知事の時代はその後10年も続いた。
 謝花はその後も、思いを共にする同志たちと参政権運動や、前述した人頭税廃止運動に奔走した。
 人頭税は謝花らの尽力で、謝花が存命中の明治35(1902)年に廃止となった。
 しかし、沖縄が参政権を獲得できたのは、謝花の死(明治41年=1908年10月29日)から4年後の明治45(1912)年のことだった。
 しかも、宮古、八重山諸島の参政権は認められず、沖縄全域の参政権が認められたのは、大正9(1920)年のことだった。

 謝花は死のかなり前から体調不良を訴えていた。
 前年末から謝花は就職活動のため琉球海運所有の球陽丸(くようまる)で単身上京していた。
 奇しきことに、同じ船には不倶戴天の敵である奈良原繁も乗っていた。
 上京した謝花の就職活動はうまくいかず、山口県大津郡の農事試験場から採用内定の通知を受けたのは、上京から半年余り後のことだった。
 明治34(1901)年5月、謝花は山口県農業試験場の技師として赴任するため、東京から山口に鉄道で向かった。
 列車が神戸駅に到着したとき、謝花は精神に異常をきたして昏倒し保護された。
 その後、東風平の実家で療養生活に入るが、健康は回復しなかった。そして明治41年、44歳の若さで没した。
 圧制者奈良原に歯向かって圧し潰された末の憤死、いや狂死といってよい。
 謝花の銅像は、糸満市に隣接する生まれ故郷東風平の運動公園の小高い丘の頂にすっくとした姿で立っている。
 銅像はこの公園の最も高いところにあるため、見晴らしは素晴らしく、南国の空が一層広く感じられる。銅像の周りはきれいな芝生で覆われている。
 銅像にアプローチするには、44段の石段を上らなければならない。この石段の数字は謝花の遺徳を偲んでもらうため、謝花の享年と同じ数に設定されている。
 昭和10(1935)年に建立された銅像は、太平洋戦争の激化で国に供出され、昭和39(1964)年に再建された。
 謝花は死んでも国との闘いを続けなければならなかった。あたりの風景を睥睨(へいげい)するかの如き謝花の表情は、そう語っているように思えた。

 謝花が生涯賭けて闘った奈良原繁が16年もの長い知事生活から引退するのは、謝花の死のわずか半年前の明治41(1908)年4月6日のことだった。
 そして「琉球王」の異名をほしいままにした奈良原繁は、大正7(1918)年5月13日の臨終まで、84歳の長寿を全うするのである。
 奈良原繁の銅像は、謝花昇の銅像とは対照的な運命をたどった。
 奈良原繁の銅像が設置されたのは、那覇空港から那覇市内に向かう明治橋のたもとにある県営奥武山(おうのやま)公園内である。
 この公園の小高い丘の一角に「改租記念碑」と記された台座がある。そこには概略こう書かれている。

 廃藩置県が他県より遅れて1879(明治12)年に設置された沖縄県では世替わりに伴う人心の動揺を抑えるため、琉球王国時代の諸制度を引き継いで行政にあたる「旧慣温存」の方針がとられた。
 国家財政の基礎となる税収入についても、宮古・八重山諸島では「人頭税」などの悪習が行われていた。こうした矛盾を解決するため断行されたのが、土地整理事業だった。これによって近代的な土地租税制度が確立した……。

 これらの文言から推論すると、奈良原の銅像は、明治という強い国家権力によって建立された。
 注目したいのは、改租記念碑に刻まれた最後の一行である。
「なお、同時に建立された奈良原の銅像は、戦時体制下に出された金属類回収令により供出されたと思われ、現在は銅像台座のみが残されている」
 この碑文によれば、奈良原繁の銅像は改租記念碑と同時期の1908(明治41)年7月4日に除幕式が行われた。
 除幕式がアメリカ独立記念日と同じ日だったことが、沖縄中が米軍基地で覆われている今となってみれば、何とも皮肉である。
 台座だけが鬱蒼とした木々の中にひっそりと鎮座する風景は、奈良原繁の数々の悪政は別にして、歴史の残酷さを突きつけられたようで少し物悲しかった。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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