連載
「沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

奈良原繁の息子は日本初のヒコーキ野郎
 幕末の「寺田屋」騒動に生麦事件、明治に入ってからは初代国鉄社長、清水次郎長との結縁、そして沖縄県知事としての独裁ぶり……。
 奈良原繁の人生は争乱の時代を濃厚に映し出して数奇と言うほかない。
 血は争えないもので、スケール感では父親にはるかに及ばないものの、時代を先取りしたという意味では、奈良原繁の息子の方が父親を凌ぐ破天荒な生き方をしたともいえる。
 ここでほとんど無名の奈良原繁の息子について書くのは、初代が残した莫大な遺産を二代目がきれいさっぱり雲散霧消させた好個の例だったと思えるからである。この親子の関係に象徴されるように、戦前の沖縄で内地の人間が残した遺産が受け継がれた例はまったくといっていいほどない。それほど沖縄県民は内地の権力者たちの好き放題にされてきたのである。
 奈良原繁の息子(次男)の三次(さんじ)は、国産機初の飛行実験に成功したパイロットである。明治44(1911)年5月5日、所沢飛行場でのことだった。
 アメリカのライト兄弟が世界初の飛行実験に成功したのは、明治36(1903)年のことだったから、それに遅れること8年後のことだった。
 ライト兄弟による飛行実験成功の翌年の1904年、奈良原三次は沖縄県知事の父・奈良原繁に会うため、大阪港を出港する船に乗った。当時、三次は岡山の第六高等学校に在学中の身だった。
 航空ジャーナリストの平木國夫が書いた『イカロスたちの夜明け』(グリーンアロー出版)に、面白いエピソードが紹介されている。
 大阪港を出港し瀬戸内海に出た頃、三次が乗った船は猛烈な濃霧に襲われた。そのとき、三次の頭に浮かんだのが、ヨーロッパで盛んに研究されていた気球による飛行だった。
 休暇が終わって沖縄からの帰路、呉軍港に立ち寄った三次は、叔父の毛利一兵衛予備艦隊司令官を訪ねた。
 毛利一兵衛は奈良原繁の妻・毛利スカの弟である。スカの父の毛利喜平太の出自についてはよくわかっていない。
 だが、幕末における薩摩と長州の深い関係から考えて、安芸の国(現・広島県)で力を蓄え、中国地方一帯、特に長州(現・山口県)を勢力下に置いた毛利一族の一人と考えてよさそうである。
 毛利家の末裔(まつえい)にはロックミュージシャン兼俳優の吉川晃司がいるから、奈良原三次はひょっとすると吉川晃司と縁続きになるのかもしれない。
 毛利一兵衛は、安政5(1858)年に生まれ、海兵8期生(明治14年=1881年卒)として、砲艦「赤城」や戦艦「鎮遠(ちんえん)」の艦長などを歴任し、最後は海軍少将まで上り詰めた男である。
 前掲の『イカロスたちの夜明け』によると、三次から相談を受けた毛利一兵衛は、こう答えたという。
「航行中の艦船から凧式繋留(たこしきけいりゅう)気球を揚げると、層の厚くない濃霧の場合、航行が非常に安全になるわな」
 この叔父の言葉を信じて東京帝国大学工学部造兵科に進んだ三次は明治41(1908)年3月に卒業後、横須賀海軍工廠(こうしょう)造兵部に就職し、海軍中技士(中尉待遇)となった。
 同年8月、三次は東郷重持(しげもち)の娘・東郷亀尾(きお)と結婚した。東郷重持は、薩摩流弓術の名手として知られた男だった。
 亀尾はその年の3月に学習院女学部を卒業したばかりのしとやかな女性だった。だが、三次は父の奈良原男爵と妻の亀尾が住む四谷の邸宅には帰らなかった。
 この邸宅の玄関先では、明治43(1910)年に、竹製の複葉機(奈良原式一号機)の主翼の骨組みが作られた。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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