連載
「沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

 三次が横須賀海軍工廠造兵部に奉職中の大正4(1915)年に発行された交詢社の『日本紳士録』には、奈良原三次の名前と肩書き、そして当時の住所が載っている。
「海軍造兵大技士、赤坂区青山南町三ノ四九」
 三次はなぜ父と新婚の妻が待つ四谷の家には帰らず、この住所にある青山の家を棲家(すみか)としたのか。
 前掲の『イカロスたちの夜明け』によれば、三次は東大在学中に神田明神下の芸妓・福島ヨネと知り合って深い仲になったという。
 福島ヨネは三次より14歳も年下の女性だった。ヨネに夢中になった三次はヨネの家から東大に通った。
 三次は幕末維新で位階を極めた父をもち、何不自由なく育った典型的な明治・大正のボンボン息子だった。
『イカロスたちの夜明け』には父親・奈良原繁の没後、男爵の爵位を受け継ぐ襲爵式を記念して、大正7(1918)年9月に撮影された奈良原三次と福島ヨネの盛装の写真が掲載されている。
 どこか頼りなげな三次に比べ、典型的な瓜実顔のヨネは芯のしっかりした女性に見える。
 同書は、こう記している。

〈福島ヨネは、(中略)たしかに二流どころの芸妓とは思えない華やいだ美貌の持主であった。戸籍面では、父親不明の私生児となっているが、母親が京都御所の女官づとめをしており、明治天皇のご落胤(らくいん)説が根強く今日まで残っている〉

 また同書には、越前琵琶を持った三次とその横にいかめしさを絵に描いたような顔で座った奈良原繁の写真も掲載されている。
 おそらく四谷の邸宅で撮られたものだと思われる。幕末維新を生き抜いた繁の顔は獰猛(どうもう)そのものだが、明治生まれの三次の顔はいつも誰かに縋りつきたそうなはかなげな表情が見てとれる。
 国産機初飛行の成功にすっかり気をよくした奈良原三次は、父親が稼いだ財産を湯水の如く使って、東京新宿角筈(つのはず)の十二社(じゅうにそう)に東京飛行機製作所をつくった。
 前出の航空ジャーナリスト平木國夫は、「歴史と旅」(2001年4月号)に、東京飛行機製作所の杜撰(ずさん)な経営について面白いエピソードを紹介している。

〈奈良原が経営する東京飛行機製作所の支配人・住吉貞次郎とその一派は、初飛行成功後、所沢の芸妓をあげて、盛大に飲めや歌えの大宴会であった。住吉は、奈良原の実印も製作所の所長印もすべてあずけられっ放しだから、必要なだけ使い放題である〉

 こういうとんでもない社内状況だったから、奈良原三次が親からもらった全財産を投入した東京飛行機製作所は間もなく倒産した。
 その後、三次は当時の横綱の名前からとった「鳳」号という飛行機をメインにして、「奈良原飛行団」なるチームを結成し、地方へ巡業飛行の旅に出た。
 この頃には、妻の亀尾と離婚し、愛人のヨネとも別れていた。果てしなく広がる大空への夢を追いかけ、父親が残した莫大な財産を使い果たした男の最後の姿は、空飛ぶ哀れな“サーカス団長”のようだった。
 昭和19(1944)年7月14日、奈良原三次は67歳でひっそりと死んだ。
 奈良原家二代にわたる「琉球王」と「ヒコーキ野郎」の収奪と蕩尽(とうじん)のドラマは、こうして幕を閉じた。
 それは、沖縄と本土の関係を濃縮したドラマともいえた。「琉球王」が沖縄から奪った富は、息子の「ヒコーキ野郎」によって、文字通り空に散ったのである。
 奈良原三次は、日本の戦闘機が次々と米軍機に撃墜され、日本全土が焦土と化した中で太平洋戦争の敗戦を宣告する玉音放送を耳にせず瞑目した。
 それが、海外に負けない飛行機づくりを夢見た奈良原三次にとって、せめてもの救いだったのかもしれない。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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