河上肇と広津和郎が沖縄社会に投げかけた波紋 奈良原繁にせよ、その息子の奈良原三次にせよ、戦前の沖縄社会にとっては際立って特異な人物である。 戦前の沖縄で有名な「内地人」といえば、『貧乏物語』で知られる河上肇のことが、まず思い浮かぶ。河上は明治44(1911)年に沖縄を訪れ、有名な舌禍事件を起こしている。 河上が沖縄を訪れたのは、「沖縄学の父」といわれた伊波普猷(いはふゆう)に会い、伊波の『古琉球』の跋(ばつ)を書くためだった。 伊波とも河上とも親しかった柳田國男は『故郷七十(しちじゅう)年』で、こんな意味のことを述べている。 「河上肇君ははじめは糸満(いとまん)の個人財産制度に感心し、そこに自分の理想を見出したようだ。滔々(とうとう)として帝国主義に禍(わざわ)いされている日本において、まだそんなに悪い風習に染まっていないのは沖縄だけで、自分はそこに望みを託すというようなことだったが、琉球の人たちは自分らはあくまで日本人の一部だと主張して、沖縄人固有の気持ちに水をさすような結果になった」 柳田が初めて沖縄を訪問したのは、それから10年後の大正9(1921)年1月のことだった。柳田の沖縄への旅はこれ一回きりだった。 その旅の様子は、『海南小記』(角川ソフィア文庫)の解説(牧田茂)や『柳田國男全集』(筑摩書房)所収の年譜に要領よくまとめられている。 これらによると、柳田は鹿児島から宮古丸という船で沖縄に向かい、5日に那覇に着き、楢原館という旅館に旅装をといた。その後、伊波普猷に会い、1月16日には鉄道馬車で糸満に向かった。 その後、宮古島、石垣島を訪ねた。2月5日には、河上肇が講演した那覇の松山小学校で「世界苦と孤島苦」と題する講演をした。この講演の内容は沖縄が抱える矛盾を鋭くついているが、それについてはまた別の機会に述べたい。 柳田の沖縄滞在は25日あまりだったが、その体験は柳田に決定的な影響を与えると同時に「柳田学」の限界も示した。 そのときの記録は『海南小記』に記されているが、浦添の朽ち果てた古城跡を訪ねたときの感想が、いかにも柳田らしい文学的香気を放っている。 〈城の石垣の上に立つと、干瀬の美しい東西の海が一度に見える。島の歴史の八百年が見える〉 柳田は貴族院書記官長などを経て民俗学者になった男である。そのノーブルさは終生変わらなかった。 柳田が沖縄を訪ねたとき、沖縄は「ソテツ地獄」に見舞われていたときだった。この頃の沖縄県民は猛毒を含むソテツを常食にせざるを得ないほど困窮していた。それによって死に到った例も枚挙にいとまがない。だが、『海南小記』にはそうした社会病理は一切書かれていない。これが、私が言う「柳田学」の限界である。 私は柳田を高く評価する者だが、下々の世界を無視したような筆遣いには違和感を覚えることがある。私が柳田を「白足袋の民俗学者」と呼ぶのは、そのためである。 話を戻す。河上が「沖縄は本土の悪い風習に染まっていない」という持論を述べたのは、明治44年4月3日、那覇の松山小学校で「新時代来る」という演題の講演の中だった。 原文は荘重な文語体でわかりにくいので、口語訳したものを紹介する。 「沖縄を拝察しますと、言葉、風俗、習慣、信仰、思想などあらゆる点で内地の歴史とは異なっているようです。そのことをもって沖縄県人は忠臣愛国の思想に乏しいという人もいます。しかし、それは決して嘆くべきことではありません。なぜならば、世界中を見渡しても、時代を動かす偉人は国家の力が強い所には生まれないからです。ユダヤのキリストも、インドの釈迦も国家の力が弱い所から生まれています」 強大な権力が及ばない所にしか偉人は生まれないというのが、河上のこの講演の主張ポイントだった。 天皇制国家への歩みを強めていた当時の日本にあって、マルクス主義者の河上がそうした危険な傾向に異を唱え、その強制力が及ばない沖縄に心を寄せたのはある意味当然のことだった。 だが、これに地元紙の「琉球新報」が、「沖縄県民に忠臣愛国の誠がないとは何事だ」と言って噛みつき、河上を「非国民精神の吹鼓者」と決めつけた。 本土とは歴史、文化が違う沖縄にあっても、メディアは国家権力の言いなりになる。この事件が問いかけているのは沖縄差別云々の問題ではなく、メディアの本質を身をもって示したことにある。