これに続いて起きたのが、『松川事件』など社会問題に関する著作が多いことで知られる広津和郎(ひろつかずお)が「中央公論」の大正15(1926)年3月号に書いた「さまよへる琉球人」という小説が巻き起こした沖縄県人差別騒動である。 「さまよへる琉球人」は、著者の広津和郎らしき人物の下宿に、沖縄県出身の行商人が出入りするようになり、たわいもない世間話をするだけの私小説である。 広津らしき主人公はその沖縄出身の行商人に何度も騙(だま)される。だが、主人公はそれを責めたりはせず、むしろ沖縄人の置かれた状況に同情心を寄せてゆく。 この小説はそれだけの話であり、沖縄人への差別はまったく感じられない。 ところが、沖縄青年同盟を名乗る団体が、この小説に抗議して広津に、「帝国の南端沖縄県は目下極度の経済的困窮に陥り、正に瀕死の症状に沈湎(ちんめん)してゐることは、足下の疾(と)くにご承知の通りで……」という文言から始まる抗議文書を送った。 しかし、この抗議文の中に、沖縄県人に対する「同情ある観察には感謝する」という文言があることからもわかるように、広津を指弾するための抗議ではなかった。 「沖縄の経済は現在最悪状態で、内地に職を求めても『劣等人』とか『未開人』と言って差別される。このような状況で『琉球人』を登場させる意図には一考を求めたい」 要約すれば、これが抗議の趣旨だった。後述するように、大正末期から昭和初期にかけての沖縄経済は文字通りどん底状態だった。 このやんわりとした抗議に対して、広津は深く理解を示し、即刻出版禁止とした。抗議した沖縄青年同盟の穏当な言葉遣いも、それに対する広津の対応も誠実だったので、事は賞賛されて終わった。 ただこの問題はその後もくすぶり、『さまよへる琉球人』が沖縄側の要請で復刊されたのは、出版禁止から半世紀あまり経った昭和45(1970)年のことだった。 沖縄問題の根の深さがよくわかる話である。 この時期に『さまよへる琉球人』が復刊された本当の理由はわからない。 ただ、その前年の1969年に、佐藤栄作とリチャード・ニクソンの日米首脳会談で安保条約延長と引き換えに沖縄返還が約束されたことが、大きく影響したと思われる。 沖縄返還が決定したのは、その翌々年の1971年、実際に「本土復帰」するのは、1972年のことである。 沖縄の人々は「ソテツ地獄」時代をどう生き抜いたのか しかし、河上肇問題にせよ広津和郎問題にせよ、いうなれば俗世間とはかなりかけはなれた世界で起きた出来事である。 私が本当に知りたかったのは、沖縄のオーディナリーピープル(普通の人々)が、「ソテツ地獄」といわれた大正、昭和の窮乏期の沖縄社会を本当はどう見ていたかについてだった。 だが、いくら渉猟しても、それを満足させてくれる資料はほとんどなかった。それだけ、沖縄の戦前社会は閉ざされていたということだろう。 そんな中で、多少とも役に立ったと思ったのは、『瀕死の琉球』と『沖縄救済論集』という本だった。 『瀕死の琉球』は大正14(1925)年9月に東京牛込の越山堂という出版社から刊行され、著者は新城朝功という都新聞(現・東京新聞)の記者である。 『瀕死の琉球』は、こう述べている。 〈沖縄五十万の同胞が生きながらの地獄其の儘(まま)の苦境に在るは前回報道した通りであるが、之を少しく統計的に示すと、同県は土地狭隘、耕地僅少なる割合に、人口甚だしく稠密を加へ之が為め目下北米、布哇(ハワイ)、ペルー、カナダ、ブラジル、南洋等に約二万人の出稼ぎ人を出し又内地府県に約七万人の男女労働者を出して居るに拘らず、耕地面積は一戸当り僅に七反四畝歩に過ぎず、之を全国の平均一町一反歩に比すると、六割強に過ぎない〉 同書は一般庶民の家で畳を使っているところは一集落で十軒足らずしかない、とも述べている。 〈要するに同地五十万県民の大部分は、大正の聖代に於て猶且(なおか)つ不公平なる政治と経済的圧迫の為めに、原始人同様の生活をなすの余儀なきに至つて居る……〉 この本によると、沖縄の経済が思い通りに発展しないのは、季節になると必ず訪れる台風のせいだともいう。