台風といえば、R・ゴールドシュミットというドイツ人生物学者が1927(昭和2)年に出版化(当時の表題は『新日本』)し、1981(昭和56)年に琉球新報社から復刊された『大正時代の沖縄』という珍しい本の中に、台風と沖縄の関係を論じた示唆的な一節がある。 〈この列島は、これまで外国の旅行者にとって決して魅力のあるものではなかった。それというのは、劣悪な海洋条件のゆえに世界交通の航路外に置かれていることと、また良港にめぐまれず、特にこの地方で激しく荒れ狂う台風に対する避難場所がほとんどないということに起因している。そんなわけで今日まで、これらの島々で外国人を見かけるのは極くまれなことであった〉 そういう島が、現在、基地に勤めるアメリカ人や中国人観光客であふれかえっている。それは、考えてみればひどく皮肉な話である。 大正から昭和にかけて、吐喇喇(とから)列島などの南西諸島が「ソテツ地獄」といわれた飢餓状態にあったことはよく知られている。 しかし、沖縄本島も「ソテツ地獄」同様の悲惨な状態にあったことは、この本を読むまで知らなかった。 「ソテツ地獄」がピークに達した昭和4(1929)年、南米などへの沖縄移民は4000名に達し、移民への送金は県収入の66%にものぼった。 この時代、沖縄の人々は他県民の目には家畜小屋と間違えられるほどの粗末な家に住み、多くの農家が高利の借金をかかえた。 また子どもを「糸満売り」や「尾類(ジュリ)売り」に出す家も後を絶たなかった。 「糸満売り」は糸満の漁師にタダ同然で年季奉公に出すこと、「尾類売り」は遊郭に遊女として売り飛ばすことをいう。 『義人謝花昇伝』と同じ著者により、昭和6(1931)年に出版された『窮乏日本の新興政策』(親泊康永・新興社)は、「日本の最窮乏地沖縄」という章を設けている。そこにはかなり感情過多な記述が見られる。 〈絶体絶命に陥つた農民は漸く蕾みそめた娘を花街に沈める。罪もなき無垢な娘を──売らるゝ先は辻の遊郭である。 此の遊郭は那覇にある。那覇市民六万、辻の遊女まさに三千。その内鑑札をうけてゐるのは九百にも足らないが無鑑札の遊女で娼妓同様のザつトその三倍──これが(花街に売られた娘)の落ちつき所である。 ありし日、平和そのものゝやうだつた田園も、今は如実に現世地獄化し、昨日も一人今日も一人といふやうに、斯うした哀れな受難者たちの姿が村から消えてゆく。その哀れな姿を見送つて泣くものは決して彼女の両親ばかりではない。実に彼女達を産んだ故郷農村がすゝり泣いてゐるのではあるまいか〉 『沖縄救済論集』は、沖縄の悲惨な状況は、過重な税金が一番の原因だと述べている。 同書は那覇市の高等小学校に通う児童の家庭で、一円の税金も納められない者が五割強にも達していると記した上、こう続けている。 〈疲弊の困憊のそんな文字はもう当らない、六十万県民こぞつて経済的破滅のどん底へたゝき込まれたのだ〉 『沖縄救済論集』の紹介をつづけよう。 同書はまず「かうもみじめな沖縄県から、なさけ容赦もあらばこそ思ひ切つてしぼり取る、太い手がある、太い手、名づけて国庫といひ……」と述べたあと、こうつづけている。 〈沖縄県はなぜこんな破目に落ちたか? これを一言にていへば人口過剰による島嶼経済の破滅である。 さらに細かく重なる条項を略記するなら第一が限られた島の生産であり無限にふえる人口の養ひきれぬのが当然、食量だけでも現に年々百五六十万円程のものを県外に仰がねばならぬ、いもを主食にしてこの始末だ、(中略) 第二はドシ〱物資が入る一方の島嶼経済、従つて通貨は羽根がはえて飛んで行く金利は日に高くなつて質屋なんぞ五銭八九厘から十二三銭といふ日本一の高利でしかも置き手ばかりで受け手がない。金利が高いから事業が起らない、事業が起らぬから働きたくも働けない……〉 この最後の言葉は、現代の沖縄でも十分に通用する。