忘れられた島の忘れられた炭鉱の惨状 沖縄の戦前社会の実態について知りたければ、前掲の三冊よりも「琉球新報」記者の三木健(たけし)が書いた『西表炭坑概史』(1983年・ひるぎ社)を勧めたい。 沖縄本島ではなく離島の西表島(いりおもてじま)が舞台になっているので、見逃しがちだが、この本には戦前の沖縄の悲惨な実情が活写されていて興味が尽きない。 西表炭坑は、嘉永6(1853)年、ペリー提督が沖縄に立ち寄った際、R・G・ジョーンズという主任技師が発見したといわれる。 琉球処分後の明治19(1886)年3月、内務大臣の山県有朋(やまがたありとも)が三井物産社長の益田孝を帯同して西表炭坑を視察し、約200名の囚人を含む労働者を集めて採掘を始めた。 一時は西表の風土病のマラリアの感染による死亡者の続出で撤退を余儀なくされた。だが、日露戦争や第一次世界大戦の勝利による好景気ブームに支えられ、西表の炭坑事業は軌道に乗った。 私がこの本を読んで一番興味をひかれたのは、大正15(1926)年5月に渋沢敬三(しぶさわけいぞう)が台湾視察からの帰途、ここに立ち寄って、「南島見聞録」(『渋沢敬三著作集第一巻』所収・平凡社)という素晴らしい記録を残しているのを知ったことである。 その意味でいうなら、『西表炭坑概史』より「南島見聞録」をまず読むべきなのかもしれない。 渋沢敬三についてはもはやいうまでもないだろう。「日本資本主義の父」といわれた渋沢栄一の嫡孫であり、日銀総裁や大蔵大臣を務めた経済人だった。 その一方で渋沢敬三は、アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館、その後、日本常民文化研究所と改称)を主宰して、私が柳田國男の「白足袋の民俗学者」に対して「地下足袋の民俗学者」と呼んだ宮本常一(みやもとつねいち)など在野の民俗学者を数多く輩出した。 渋沢の西表島旅行記は、最初みずみずしい描写で始まり、次第に悲惨さを帯びてゆく。紀行文の醍醐味をじっくり味わっていただこう。 〈久吉丸が鬱蒼たる森林に蔽われている山深い西表島西方の祖内(すない)湾に入ったのは朝の八時頃であった。海底の珊瑚礁のために一見相当に広い湾も実は船がかりが非常に悪く、僅か千噸(トン)のこんな船でも自由に動けなかった。打ち見たところ何でもない海面を異常な注意を以て、右に左に舵を取りながら入る船長の苦心も並大抵ではなかった。なるほど錨の降りた時も船は湾の中央部にそっと止っていた。岸まではどちらへ向いても七、八町から十町はあった。湾に入る前、右手の海岸に意外にも高い煙突が見えただけで、湾の周囲には家らしいものは五、六軒しか見当らなかった。密林は岸の端までのびていて、大袈裟にいえば無人島のような感がした〉 ここから渋沢の文章はガラリと変わる。 〈ところが船が着くと間もなく大きな艀(はしけ)が石炭を山と積んで十何艘もやって来たのには驚いたが、この石炭を本船に積み込む苦力(クーリー)が総て台湾人であるに至っては更に二度びっくりしたのであった。(中略) 船の(ママ)湾に入った時、右手に見えた煙突の黒煙は、この湾を形成する内離(うちばなり)という島の、成屋(なるや)という所の炭坑から出る煙であった。現在ある炭坑は琉球炭坑と称するものを最大とし、その他高崎炭坑、沖縄炭坑、星ケ岡炭坑等あるが、琉球炭坑には二千名からの坑夫がおり、その他はそれぞれ百五十名とか百名とかを使役している〉 渋沢は久吉丸の船員二名と小舟で西表島に上陸し、手近の炭坑を見せてもらった。 〈四十五度傾斜の坑道を垂直にして約五十尺(約15メートル)も地下に降るともう石炭が露出して居るが、何れの炭層も薄いので三尺がせいぜいで皆横に寝乍(ねなが)ら掘って居る。全炭山皆此の程度ですと云う坑夫の顔は極めて陰惨であった。 坑道の入口に引返すと十五、六の児が素裸でふいご(ふいごに傍点)を動かして居た。彼等の賃金は数字のみで物資は全て切符で給せられる。此の島には料理屋もなければ酌婦も居ない。彼等の内地向き通信は皆坑主より没収される。遠き内地からの手紙は、彼等の手に渡ることは絶対にない〉