連載
「沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

 たとえ島を脱出することができても、炭坑主の送った密偵は石垣や宮古、果ては台湾にまで張りめぐらされているため、脱走者はたちまち捕まり、元の炭坑に送り返されてしまう。
 渋沢はそう述べ、一度入れられたら最後、二度と出られない彼らの悲惨な境遇に深い同情を寄せている。
 この文中に「皆横に寝乍ら掘って居る」という表現がある。これはイギリスの産業革命期の炭坑で狭い坑道には大人が入れないため小さな子どもを坑道に横に押し込めて掘らせた「タヌキ掘り」という手法である。この採掘法だと、品位が高く採掘しやすい部分だけを運びだすことができる。
 渋沢敬三が坑内から出て手を洗おうとしたとき、水を運んで来た年寄りと目があった。その顔を見て渋沢は思わず落涙した。

〈爺さんは親切であった。又素直な人であった。しかし爺さんの顔には希望も生命も消え失せて居た。大震災の火事を見て居る様な全く自失した顔であった。爺さんには家族もあれば親類もあろう。そして双方から極力その存在を知らすことを勉めたであろうが、全てが無駄となって今は只もう単に生きて居ると云うのみである。ふいご・・・の子供にも生気がなかった。何れを見ても生ける屍である。此の状態は所謂労働問題を全然超越して居る〉

 内地ではいくら何でもこれほど悲惨な状況に置かれた炭坑はなかっただろう。
 それが沖縄の西表島で許されたのは、そこが孤島の中の孤島という絶望的な状況に置かれていたからに他ならない。
 薩摩藩から課せられた重税を、八重山、宮古の離島に過酷な「人頭税」で肩代わりさせたように、悲劇の皺寄せは必ず離島に押しつけられる。
 西表炭坑の「タコ部屋労働」は、太平洋戦争中も続いた。西表炭坑にやっと終止符が打たれたのは石炭から石油に移行するエネルギー革命によって、九州や北海道の炭鉱が次々と閉山となった1960年のことだった。
「南島見聞録」という秀逸なルポを書いた渋沢敬三は、そもそも離島への思いが深かった。
 渋沢は戦前の段階で「日本は島国なので島嶼(とうしょ)省という役所をつくって離島間のネットワークを考えるべきだ」という先進的な考えを提案している。
 戦後の昭和31(1956)年には、まだ本土に復帰していなかった沖縄、小笠原諸島の人々に援護の手を差し伸べる南方同胞後援会の会長に就任している。同会は現在も、沖縄協会と改称されて活動を続けている。
 さらに渋沢が手塩にかけて育てた民俗学者の宮本常一は、昭和28(1953)年に発足した全国離島振興協議会の初代事務局長に就任している。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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