連載
「沖縄はどう生きるか
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇 佐野眞一 Shinichi Sano

吉田嗣延と「沖縄はどう生きるか」
 沖縄の戦前について書かれた本がほとんどなかったように、敗戦直後の沖縄の人々が、沖縄を今後どういう社会にしようと思っていたかについて書かれた本は極めて少ない。
 こうした中で、祖国復帰運動の中心となった元南方同胞援護会専務理事の吉田嗣延(しえん)の活動がほとんど知られていないのは残念である。
 南方同胞援護会が発展改称されたのが、先に紹介した渋沢敬三が会長をつとめた南方同胞後援会である。
 吉田嗣延が書いた『小さな闘いの日々―沖縄復帰のうらばなし』(1977年・文教商事)は、そのことについて明らかにした貴重な本である。
 その本にふれる前に、著者の吉田嗣延について簡単なプロフィールを記しておきたい。
『小さな闘いの日々』によれば、吉田は明治43(1910)年、首里に生まれ旧制沖縄県立第一中学校、松江高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進んだ。
 東大を卒業後、郷里の沖縄に帰り、沖縄県社会教育主事や地方事務官を歴任した。その後応召され、復員したのは、昭和21(1946)年の春だった。
 吉田は復員先の広島県大竹から、汽車で熊本まで行き、沖縄行きの密航の機会を窺った。焼き玉エンジンをつけただけの14トンのボロ船で熊本県北部の日奈久(ひなぐ=現・八代市)を出たのは、7月26日の未明だった。
 同じ船の中には、その後沖縄経済界のドンと呼ばれることになるゼネコン大手国場(こくば)組創業者の国場幸太郎(こうたろう)がいた。
 密航船は伊平屋島(いへやじま)を経て、沖縄本島・国頭村の鏡地(かがんじ)という小さな港に着いた。吉田はそのときのことを興奮を抑えて「沖縄潜入に成功した」と書いている。
 その頃、吉田は沖縄は両3年、長くても数年のうちに日本に返還されると思っていた。吉田は同書で、アメリカの沖縄占領がその後まさか30年の長きにも及ぶとは思わなかったと、率直に述べている。
 以下にあげるのは、吉田が沖縄潜入に成功したとき集まってきた人々と今後沖縄はどうあるべきかについて語った貴重な証言である。

〈戦前、左翼運動の仲宗根源和(なかそねげんわ)と、それに座安盛徳の両氏は、石川(筆者注・現在のうるま市)の寄寓先に私を訪ねてきて、沖縄は独立国になるべきであると熱烈に説いた〉

 吉田が石川に寄寓先を求めたのは、敗戦直後沖縄民政府は石川にあったからである。
 この文中に最初に出て来る仲宗根源和は戦前からの日本共産党員で、沖縄の左翼運動家として名を馳せた人物である、座安盛徳は「沖縄タイムス」創設メンバーの一人で、沖縄戦のすさまじさを最初に伝えて衝撃を与えた『鉄の暴風』の刊行の仕掛人としても知られている。

〈浦崎康華(うらさきこうか)、兼次左一(かねしさいち)、瀬長亀次郎(せながかめじろう)の諸氏は、アメリカの保護国としての沖縄の構想を示した〉

 浦崎康華は、1947年の沖縄人民党創設時の委員長、兼次左一は沖縄人民党、沖縄社会大衆党、沖縄社会党など沖縄左派政党の結成に参加した政治家、瀬長亀次郎については、この連載の第1、2回目でも少しふれた。

〈具体的にはどんなものかとの私の問いに彼らは、たとえばパナマ共和国のごとき形態を考えていると答えた――このように、硝煙に破壊された沖縄の自然はなお荒れるにまかされているとき、すでに一部の人士は沖縄の明日を模索して瓦礫の中から立ち上がろうとしていたのである。このとき、はたして、これらの人たちは、沖縄が三十年にもわたって領有されると予想されただろうか〉

 沖縄は独立国になるべきだ、いや、アメリカの保護国としてパナマ共和国のようになるべきだ。こうした熱い議論が敗戦直後の沖縄で戦わされていたとは、この本を読むまで知らなかった。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
Back number
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記