しかし、実は沖縄独立論はこのとき最初に提唱されたわけではない。 古くはパナマ運河が起工され、国鉄の前身の日本鉄道が設立された明治14(1881)年3月6日、土佐藩出身の自由民権運動家の植木枝盛(うえきえもり)は「愛国新誌」という雑誌に「琉球ノ独立セシム可キヲ論ズ」という論文を発表している。 漢字カタカナだけのかなり読みにくい文章なので、主要部分だけ引用する。 〈所謂琉球ノ如キハ世界ノ各国ニ較ベテ其地大ナルコト能(あた)ハズ、其人多キコト能ハズ、其力モ亦(また)強キコト能ハズシテ古来十分ニ昌盛ナルコト能ハズ、今日ニ至ルト雖(いえど)モ亦仍(な)ホ甚ダ微弱ニシテ、純然克(よ)ク独立シテ鞏固(きょうこ)ニ存立スルコト或ハ難カルベキヤ否ヲ知ラザル也。然リト雖モ琉球モ亦一個別立ノ地ニシテ……〉 当時の琉球は日本と清国との両属状態になっていた。この点について植木はこう述べている。 〈琉球全地ヲ両断シテ二国交々(こもごも)分取セントスルガ如キノ事アリトスレバ、寧(むし)ロ之ヲシテ独立セシムルノ優レルニ若(し)カザルヲ知ルナリ。蓋(けだ)シ琉球ヲ両断シテ二国交々之ヲ分取スルト云フガ如キハ、実ニ残忍酷虐ノ太甚矣モノニシテ、野蛮不文ノ極ニ達スルト云フベシ〉 「太甚矣」とは、「物事の程度のはなはだしさ」という意味である。 この植木の思想に濃厚に表れているのは、西欧列強を嫌い小国主義、アジア主義を貫いた視点である。 その意味で、日本が高度経済成長時代に入る直前、列強各国の大国主義に異を唱えて「小日本主義」を主張した石橋湛山(いしばしたんざん)の思想に通じるものがある。 いずれにせよ琉球独立論が現今に始まったものではなく、今から137年も前、琉球処分より2年後にはすでに唱えられていたことは、われわれ日本人は肝に銘じるべきであろう。 吉田嗣延の『小さな闘いの日』の話に戻ろう。同書に、今でこそ笑い話にしか思えない傑作なエピソードが紹介されている。 その頃、吉田は沖縄を離れ、東京の外務省の事務官となっていた。サンフランシスコ講和条約が締結されて日本が独立を果たし、沖縄が完全にアメリカの統治下に入る前の話である。 〈ある日、外務省の私の部屋に、突然、白髪長髯の老人がとびこんできて「いま守衛に追われている。かくまってくれ」という。戦争中、翼賛選挙で沖縄から代議士にも当選したことのある奇行で知られたW・Rである。外務省の門前でビラを配っているところを守衛にとがめられたらしい。そのビラを見て、私はおどろいた。 “沖縄県人はすべてスマトラかボルネオに移住し、そこに真の太平天国をつくる。沖縄は米国に提供する” という琉球独立党総裁としての宣言である〉 この逸話は失笑ものだが、敗戦直後の沖縄人たちが、戦後の沖縄をどうすべきか真剣になってグランドデザインを考えていたという意味では、この話は誰も笑えない。 この文中にあるW・Rとは前掲の『沖縄救済論集』の著者、湧上聾人(わくがみろうじん)のことである。聾人の名は幼少期の水遊びの最中に耳をケガし聴力を失ったことに起因する。1942年の翼賛選挙で湧上を支援して当選させた東方会は頭山満の玄洋社とも縁の深い国家主義政党だった。 当時の沖縄は文字通り闇の中を手探り状態で歩かなければならない状況だった。 いや、沖縄の戦後の闇はそこで終わったわけではない。 その闇は時代と共にますます深度を増している。沖縄県民が期待していた日本復帰が叶っても、沖縄の光明はまったく見えない。 いや、逆に日本復帰後の方が混迷はむしろ深まった。その問題についてはいずれ稿を改めたい。