連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 祖父は鹿児島の豪商、祖母は「ジュリ」と言われた沖縄の女郎
 徳田は1952年に刊行された『徳田球一伝』(理論社)所収の「徳球大いに語る」で、自分の出自にまつわる非常に重要なことをきわめて率直に述べている。
〈私は非常にうれしかったとか、非常に悲しかったとかいう経験を持たない。非常に悲しいという時でも、悲しんでも仕様がないじゃないかという考えが強く出る。子供の時から苦しさや不幸が重って来たから、耐えぬく訓練が積まれているのかもしれない。(中略)
 これは長年の経験と、もう一つは私がちょっと世の中に例のない親戚関係を持ったからであろう。私の祖父は父方も母方も鹿児島人である。維新前には鹿児島人が沖縄を根拠として外国と密貿易をしていた。祖父はその方面の商人で、いわゆる廻船問屋であった。それが沖縄で仕事をするためには、言葉の関係からどうしても沖縄の婦人をもたないと具合が悪いので妾をもった。私の父も母もそれぞれ妾の腹から生まれたのだ。沖縄では妾は大体女郎から求められる。女郎のことを「ジュリ」という。女郎はいずれも貧家の娘が売られていくもので、私の父の母は貧農の娘であり、母の母はこれも貧しい職人の家に生まれた。そういう父と母の子として生まれた私だから、半ば鹿児島人で半ば沖縄人、しかも、妾の子というわけで、鹿児島からすれば沖縄人の妾の子だというし、沖縄人からすればあれは鹿児島人が島へ来て妾に生ませた子だという。両方からよく言われない、うまくない境遇に置かれていた。子供の時から艱難の中に、自分を練っていかなければならなかった。そのために私はこういう性格になったのかと思う〉
 徳田の祖父は佐平、「ジュリ」出身の祖母はマカトと言った。また母方の祖母のツルもひどい貧乏職人の家に生まれ、姉妹三人のうち、ツルを含めた二人までが身売りされるという境遇におかれていた。
 徳田の両方の祖母は「ジュリ」という同じ境遇の中で苦労して育ったが、その性格はまったく違っていた。父方の祖母は夫や子供たちとの生活しか知らない素朴な女性だった。
 だが、母方の祖母は生活のためには高利貸しさえするような強欲な女性だった。
 徳田の実弟の徳田正次の回想によれば、「祖母はひどい貧農の娘で、その生れ故郷の家はまるでブタ小屋のようなあばらやだった」という。
〈兄は、幼年にしてすでに父がわりをしたり、善良な祖母と、わるい祖母などに育てられて、社会の荒波を身にうけ、社会の罪悪面を身近くみせつけられたので、弱い人たちにたいする同情と、それらの人々をまもろうとする気もちが若いときから強かった。そして小学校五年のとき最初のストライキをやった。
 それは、校長が琉球人でなく、「琉球人のばかやろ」とどなったりして、ざんぎゃくなわるい人間だとこれに反感をもって同盟休校をした。兄は、小学校入学から出るまで級長だったので、偶然このストライキの指導をすることになった。
 兄が中学に入って一年のとき、漢文の先生は後に講談社の社長となった野間清治だった。教室では石童丸の話や講談、浪花節のようなことばかりをやっていた。しかも遊郭を下宿として毎日酔っぱらって出勤した。兄は怒って、「この野郎琉球人を馬鹿にしておる」と大変憤慨していた〉
 石童丸とは、高野山に出家した父を訪ねた息子が追い返される中世の物語である。教室でこんなお涙頂戴の話や浪花節ばかりうなっていたというのだから、さすが大日本雄弁会講談社の社長になる人物である。
 調べてみると野間清治は確かに1905(明治38)年に、沖縄の県立第一中学(現・首里高校)の教諭となっている。それにしても野間はとんだところで旧悪を暴かれたものである。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記