連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 徳田正次はこの回想で、兄は「じつに美少年で、水もしたたるようだった。煙草を吸うのも十二か十三、酒も十五歳位から飲んでいた」とも述べている。
 正義感の強い少年だった球一にとっては、貧しい人からも容赦なく金を取り立てる母方の祖母の商売は幼い心を傷つけた。
 父は祖父と同じ佐平を名乗った。佐平は沖縄三人男といわれるほどの美男子だった。女郎上がりの母はカマトと言った。その両親の長男に生まれたのが球一だった。下には長女のツル、次女の郁子(マカト)、次男の正次、三女の克子(かつこ)がいた。この頃の名護では祖先と同名を名乗るのは当たり前の風習だった。
〈私の祖父は相当大きな商人で、神戸の川崎と張合ったくらいだが、川崎は大久保方、私の祖父は西郷方となったために、十年戦争で散々にやっつけられて、鹿児島の本拠はもちろん倉庫から船から徹底的に失った。祖父は非常に恨みを呑んで死んでいった〉(『徳田球一伝』)
 少し解説を加えておこう。神戸の川崎とは川崎造船所をつくった川崎財閥のことである。また十年戦争とは1877(明治10)年に勃発した西南戦争のことを指す。大久保とは明治政府側についた大久保利通、西郷は維新前は大久保の盟友だったNHK大河ドラマの「西郷どん」こと西郷隆盛のことである。
 石垣島出身の詩人・伊波南哲(いばなんてつ)の娘で那覇市教育委員だった神山陽子は「炎のうたびと」と題して、一番栄えた頃の徳田家と球一の末妹の矢野(やの)克子のことを書いている。(『時代を彩った女たち─近代沖縄女性史』ニライ社)
 徳田の父方の祖父の佐平は、海の水は干しても徳田の家の金は減らないといわれるほどの資産家だった。だが、徳田の父の異父兄の徳田弥太郎が放蕩の限りを尽くし、弟である徳田の父に分け与えられた財産まで蕩尽したため、父はせっかく入学した慶応義塾を退学せざるを得なかった。
 その父は破傷風にかかって39歳の若さで死んだ。球一はまだ12歳だった。末の娘の克子に至っては母の胎内で2か月目だった。生前球一は「私の後頭部に今でも傷あとがあるが、これは少年時代、小さい妹のために花をとろうとして河原の砂利に落ちた時の傷である」と語っている。
 徳田球一自身も前述したように、自分の家系について語っている。徳田はこうした複雑
な家系について『徳田球一伝』の最後でこう述べている。
〈これは悲しむべき境遇であったかも知れないが、ある意味からいえば非常に幸福であった。そういう艱難に耐えなければいけない境遇に置かれたことが、私を革命家にする一つのよい条件を作ってくれたのかも知れないからである〉
 徳田が生まれた頃の父の仕事や、父没後の家の商売については、名護ルポのところであらためて述べたい。渡部とのインタビューに戻ろう。
 ――ところで徳田に子供はいましたか?
「先妻の奥さんとの間に長男は生まれたんですが、ものすごく頭がよすぎる異常体質で12歳くらいで死ぬんです」
 徳田が最初に結婚した妻は「よし」といい、夭折した長男は「尚」という。
「尚」が死んだ1936(昭和11)年11月24日は、徳田球一が現在の中野区新井3丁目にあった豊多摩(とよたま)刑務所から網走刑務所に移送されてあと1か月でちょうど1年というときだった。
 徳田の最初の結婚は1924(大正12)年春、30歳のときである。仲人は戦前からの社会運動家として有名な荒畑寒村(あらはたかんそん)夫妻だった。
 徳田が再婚するのは、戦後の1946年4月12日である。徳田は“獄中十八年”を過ごし1945年10月10日に府中刑務所を出獄したのち、獄中の徳田に差し入れや手紙を通して何くれとなく面倒を見てくれた従兄の徳田耕作未亡人のたつと二度目の結婚をした。このとき徳田は53歳になっていた。
 これらの経歴だけでも徳田球一の人生がいかに波瀾万丈だったかがわかる。徳田の経歴を調べてさらに意外だったのは、徳田の末妹の矢野克子が結婚後たどった数奇な人生だった。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記