連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 名護で生まれ世界を震撼させたもう一人の共産党員
 私が徳田球一が生まれた名護に行ったのは、これだけの基礎知識を得た上でのことだった。名護は少し歩くと山原(やんばる)の山が迫る狭隘(きょうあい)な町である。
 名護市の中心部にある名護博物館に集まってもらったのは、1998年10月に除幕式が行われた徳田球一記念碑の建造に尽力した地元の有志たちだった。
 彼らから一通りの説明を聞いたあと、徳田の生家跡に行ってみた。南国の日差しが容赦なく照り付ける暑い日だった。通りには陽炎(かげろう)が立ち、白亜の漆喰(しっくい)でつくられた建物という建物はなおさら白っぽく見えた。
 徳田の生地は名護十字路近くにあったが、太平洋戦争の末期に米軍の艦砲射撃で徹底的に破壊され、いまは往時の面影を伝えるものは何も残っていなかった。
 ただ、『名護市史 資料編2』(戦前新聞集成1)の見返し部分に、徳田が生まれた明治末頃の名護の市街図が載っていた。
 これを見ると、徳田家は名護湾を間近に望む繁華な場所にあり、目の前には8メートルほどの広い大通りが写っている。ここは昔、「会社通り」といわれた。鹿児島出身の起業家たちが、この通りに「会社」を競ってつくったためだという。
 その通りには、名護警察署や、徳田の父が勤めた国頭郡役所などが並んでいた。郡役所の書記になった父親の佐平は両手で算盤(そろばん)をはじくくらいの才人だったという。
 徳田の生まれた家は、名護警察署の隣だということもわかった。そこを案内してくれた名護博物館の館長によれば、徳田の生家の敷地面積は約100坪と広かった。
 その半分は雑貨店として使用し、店には食料品や衣料品、雑貨なども置いた“よろず屋”だった。
 徳田の生家の前の大通りには、盆踊りなどの村の行事のとき小屋が立ち並び、徳田の生家は特別席になったので、店の前に桟敷を用意して客を招き入れたという。
 敷地の3分の1ほどでは印刷業を営み、職人も3人ほどいた。またここでは春秋2回の養蚕も手がけ、その手伝いには子どもたちがもっぱら駆り出された。
 ここにはいま、3軒の商店が入っている。当時の名護の主要交通機関は船だった。名護から那覇までは汽船で3、4時間はかかった。名護湾は遠浅なので汽船は接岸できず、人も荷物も伝馬船で陸揚げされた。
 名護は沖縄南部の那覇と沖縄北部の山原を結ぶ交通の要衝地だった。
 名護博物館から名護十字路に向け100メートルほど行くと、巨大なガジュマルの樹が見えてくる。推定樹齢250年以上といわれるこの大木は、名護のシンボル的存在となっている。
 その横の広場に徳田球一の碑と並んで、同じ名護生まれでゾルゲ事件で逮捕され獄死した宮城与徳の記念碑が建っている。
 この記念碑は宮城与徳の生誕100周年を記念して、2006年に建立されたものである。碑には宮城与徳24歳のときの肖像画と、与徳の代表作の「月光像」の複写がはめ込まれている。
 宮城与徳の生家は、徳田球一の生家があった「会社通り」から300メートルほど内陸部に入ったところにある。ただ、そこには宮城与徳の縁戚者は誰もいない。時代の波に翻弄された宮城与徳の波乱の人生についてはおいおいふれていきたい。
 ここではまず『宮城与徳 移民青年画家の光と影』(野本一平・沖縄タイムス社)の年譜を参照しながら、宮城与徳の簡単な履歴だけを紹介しておこう。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記