連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 宮城与徳は1903(明治36)年2月10日、名護村東江で出生した。徳田球一より9歳年下である。ちなみに徳田の弟の正次とは同年生まれで名護尋常高等小学校では同級生として机を並べた仲だった。
 父は与正、母はカマドといい、兄弟は長男の与整と次男の与徳の二人だった。父の与正は与徳が1歳のときフィリピンの農園に出稼ぎに行き、一旦名護に帰ってからハワイに移住した。
 父はその後、ハワイからアメリカ本土に渡り、カリフォルニア南東部のメキシコ国境に近い村に移り住んだ。
 徳田球一は鹿児島人と沖縄人の間に生まれたいわば歴史の子だったが、宮城与徳も貧しい沖縄の運命を背負わされるように、移民一家の子として育った。
 与徳が13歳になったとき、県立第二中学校(現・那覇高校)在学中の兄・与整が父に呼ばれて渡米した。次いで沖縄県立師範学校在学中の与徳が、アメリカに渡った。ロシア革命が起きて2年後の1919(大正8)年のことだった。
 与徳が渡米した頃から排日運動が高まり始めていた。それから10年後の1929(昭和4)年10月、世界大恐慌が起き、全米の失業者は100万人余にもおよんだ。特にアメリカの市民権を持たない日系移民は経済不況の余波をもろに受け、自殺者が続出した。
 与徳は画家を目指す一方、以前から社会問題にも関心を持っていた。そして1931年秋、アメリカ共産党東洋民族課日本人部へ入党した。
 その翌年の1月15日、「ロングビーチ事件」が起きた。ロサンゼルスに隣接するカリフォルニア州のロングビーチで開催されたアメリカ共産党南ロサンゼルス地区大会が警察によって中止させられ、これに参加していた宮城与徳の従兄弟ら5人が「好もしからざる移民」として逮捕され、国外追放処分を受けたのである。
 翌1933年秋、ソ連からアメリカに潜入していたロイこと野坂参三(のさかさんぞう)らが突然訪れ、与徳に日本へ行くようにという組織からの要請を伝えたという。野坂参三は戦前からの日本共産党員で、戦後は日本共産党の名誉議長にもなった大物である。
 だが前出の渡部富哉によれば、ロイ=野坂参三説は誤りで、ロイを名乗ったのはハワイ生まれの木元伝一(通称・ジャック木元)だったという。
 木元は太平洋戦争中はアメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理作戦に従事した。戦後はハワイ共産党のトップになり、“赤狩り”といわれたマッカーシー旋風では起訴されたものの裁判では勝利する波瀾の人生を送った。
 1933年10月、与徳はロサンゼルスから「ぶゑのすあいれす丸」に乗って、横浜港に上陸した。沖縄を離れてから14年後のことだった。
 日本に帰国した与徳は、上野公園で特派員として日本に入国していたゾルゲと初接触し、ゾルゲの協力者だった大阪朝日新聞記者の尾崎秀実とゾルゲを奈良公園で会わせた。
 これ以降のことは、ゾルゲ事件のところで述べるが、帰国した与徳の行動で興味深いのは、沖縄出身の日本共産党員の真栄田(松本)三益としきりに接触していることである。
 真栄田三益というこれまでベールに包まれてきた男の正体については、後述したい。
 いずれにせよ画家を目指してきた与徳は、激動する世界史に翻弄されてゾルゲ事件に巻き込まれ、最後は獄死という悲劇に至るのである。享年40歳という若さだった。
 日本帰国後の与徳の事跡で興味深いのは、国家総動員法が発令された年、1938年の秋、与徳が徳田球一の弟の徳田正次に会い、満州開拓青少年義勇軍の実情を聞きだしていることである。
 この頃、兄の徳田球一は極寒の網走刑務所で震えていたが、“極楽とんぼ”の徳田正次は満州の情報通をもって自ら任じる“満州ゴロ”を決め込んでいたのである。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記