連載
沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 あの「原始、女性は太陽であった」の平塚らいちょうに超セクハラ発言
 1915(大正4)年、那覇と沖縄本島北部の今帰仁(なきじん)を結ぶ国頭街道が開通し、那覇と名護間には客を乗せて走る馬車が通るようになった。それまでの船便は徐々に衰退し、時代は陸上交通の時代に入ろうとしていた。徳田が七高に入って4年後のことである。
 その翌年、こうした時代の推移を敏感に感じ取るように、国頭郡役所の書記だった徳田球一は、上京して築地にあった逓信省の東京貯金局に就職した。徳田23歳のときだった。
 上京して2年後の1917年、徳田は日本大学専門部法律学科の夜間部に入学した。時あたかもロシア革命が勃発し、ロマノフ王朝が滅亡してソビエト政権が誕生した年だった。
 当時の日大法学部の最大のセールスポイントは、鳩山秀夫の「民法講義」だった。鳩山秀夫は元総理大臣の鳩山由紀夫の大叔父である。
 ただ徳田にとって鳩山の授業はまったく面白くなかった。徳田は後に『わが生い立の記』のなかで、「日大で講義をきいた時間を計算すると、実質的には一か月間くらいのものだった」と正直に記している。
 これにつづけて徳田は「金もうけと反教養の寄付金あつめの『学校屋』として、日大などは一番でたらめの方であったと思う」と書いている。
 私は1960年代後半の日大闘争の原因が当局の金儲け主義の運営方針にあったことを知っている。
 それに加えて、日大アメフト部の不祥事が明るみに出たことを思えば、徳田の見解は現代の日大に通じてけだし慧眼(けいがん)と言うほかない。
 1920(大正9)年に日大の夜間部を卒業した徳田は、同じ沖縄出身で1歳年下の井之口政雄と、貧しい労働者が群がる東京・江東地区のスラム街に一軒家を借り、「つなぎ屋」というセツルメント活動を始めた。
 今流に言うなら「つなぎ屋」は、家庭でまともな食事にもありつけない貧しい子供たちのための「子ども食堂」のような慈善事業と思っていただければよい。
 井之口は慶応大学を出たばかりで、在野のマルクス主義者として知られた山川均(やまかわひとし)が主宰する社会主義団体「水曜会」のメンバーだった。徳田とも境遇がよく似ていて、父親は鹿児島の豪商、母親は辻の“ジュリ”だった。
 戦後すぐに日本共産党に入党し、読売新聞争議を指揮した増山太助は、『戦後期左翼人士群像』(柘植書房新社)で、徳田に関するこんなエピソードを紹介している。
〈徳田のことを「同郷の親友」あるいは「おやじ」と呼んでいた井之口政雄は「徳田といっしょに争議の応援に行く途中で、川に落ちてもがいている人をみつけた」「徳田は咄嗟に川へ飛び込み、救い上げて介抱に余念がなかった」。井之口が「争議にいかなくてもいいのか」とたずねると、「何をいうか。人命のほうが大切だ」と怒鳴りつけ、焚火をたいて溺れた人を温めつづけた〉
 徳田はこの「つなぎ屋」時代、社会主義者の堺利彦(さかいとしひこ)の紹介により、やはり沖縄出身の仲宗根源和と初めて対面した。
 仲宗根は大正年間に日本共産党に入党した古参の共産党員だった。戦後はかなり早い時期から「琉球独立論」を唱えた。
 こうした関係から徳田は日大夜間部を卒業した1920(大正9)年12月、堺利彦、山川均らが結成した日本社会主義同盟に参加した。

 


 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記