連載
「沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 ここでお断りしておきたいことがある。私はこの稿で社会主義運動史や日本共産党史を書くつもりはこれっぽっちもない。私がここで書こうとしているのは、「じきじん」徳田球一の偽らざる素顔である。
 荒畑寒村がこの頃の徳田の素顔を伝える「煽動家への不信」という辛辣な文章を書いている。(「文藝春秋」1949年7月号)
〈大正十年當時は、私は大阪で「日本勞働新聞」を發行して勞働運動に從事していたが、所用のために上京して同志の山川均君に會うと山川君等の水曜會に出入りしている青年辯護士で徳田球一という男が、私にぜひ會いたいといつているという話なので、先方の定めた日時に銀座のカフェー・ライオンで會見することになつた。これが私の徳田君と相識つた最初である〉
 徳田が弁護士になった経緯については後述する。
〈徳田君その日の扮裝(いでたち)は澁い結城の着物に角帶という、一見遊び人とも想われるような恰好であつたが、彼は突然こういい出した。
「あなたは大阪で勞働運動をやつていて、しじゆう運動資金に不自由しているという話ですが、その金を出そうじやありませんか。」
 この耳よりな提案の代償として彼がもち出した條件は、鐘紡にストライキを起してもらいたいということであつた。私はそれを聞いて實に意外な感に打たれた〉
 荒畑が意外に思ったのは、鐘紡の労働者がストライキを起こす客観的条件は整っているが、ストライキを起こすか否かは労働者の自覚に任せるべきであって、外から煽動して起こるものではないという社会運動者らしいしごくまっとうな考えを持っていたからだった。
〈水曜會に出入りして社會主義の理論の一端をも聞きかじつている徳田君が、こういう條件をもち出すのは何とも不可解であつた。しかし彼は、
「それは勿論です。だから、いつ迄にストライキを起してくれという譯じやなく、あなたの方はその宣傳のために運動をする、私の方はその運動の金を出す。そうして結果において、ストライキが起ればそれでいゝのです。」というのである。そこで、私が何のために特に鐘紡のストライキを熱望するのかと問うと、彼は極めて率直に答えた。
「鐘紡にストライキが起れば株の變動が起るから、私の方はそれで儲けるのです。どうです、一つギヴ・アンド・テークでゆこうじやありませんか。」〉
 この提案に生真面目な荒畑は面食らわざるを得なかった。荒畑はつづけている。
〈鐘紡問題は徳田君が株屋の顧問辯護士として(中略)一と山當てようとした冒險であつたばかりでなく、また彼の性格の一端の現われでもあつたに違いない。そういう冒險心といわゆる「心臓の強さ」とは、彼の一貫した性格の觀がある……〉
 荒畑はこの文章を次のようにまとめている。
〈彼がどれ程、マルクス主義に精通しているか、私は知らない。だが、私の知つている頃の彼はかつてマルクス主義について深く勉強したことは知らない。その種の本を讀んでいたのを見たこともない。少なくとも彼のいわゆるマルクス・レーニン主義に關して、一篇の論文、一冊の著書もない共産黨の首領というが如きは、徳田君を措いて世界に餘り例のない存在ではなかろうか。しかし彼の問題の核心をつかむ直觀力にはなか〱鋭いものがあり、日本經濟の分析など得意になつてやりもしたが、理論的な基礎知識の缺如は皮相的な思いつきに陥らしめることが少くなかつた。それが又、彼の同志から「徳田の兜町史觀」などゝ嘲けられた所以でもあつたのだ〉
 徳田球一の史観はマルクス・レーニン主義史観ではなく、「兜町史觀」とは徳田のいい加減さと直観力の鋭さを言い得て妙である。
 共産党員とはとても思えないこのいい加減さが、あえていうなら徳田の最大の魅力だった。
 私が独特の文体にひかれてひそかにファンになった朝倉喬司(2010年11月 67歳で死去)が遺作となった『活劇日本共産党』(毎日新聞社)の主役に徳田球一を選んだのも、むべなるかなだったと思う。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記