連載
「沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 市谷刑務所に収監されたのが関東大震災の3か月前の1923年6月、府中刑務所から出所したのは戦後の1945年10月である。
 その間、娑婆にいたのは1923年12月から1926年7月までの2年7か月と、徳田が日本共産党委員長に選出された1927年1月から1928年2月までの1年1か月だけだった。合わせても3年8か月しか娑婆にいなかったことになる。
 ここから獄中にいた期間を割り出すと、徳田は18年あまりもの間、暗い獄中で過ごしたことがわかる。徳田の看板である“獄中十八年”に偽りはない。
 この間、日本共産党では皇太子明仁(現・天皇)が誕生した1933(昭和8)年12月23日に起きたリンチによるスパイ査問事件や、同年6月の佐野学、鍋山貞親らの転向声明が組織を震撼させた。
 さらに徳田は、第二次共産党が当局の弾圧によって壊滅させられたあと、田中清玄(たなかせいげん)らを指導者として組織された「武装共産党」や、「武装共産党」の壊滅後に生まれたいわゆる「非常時共産党」時代も肌身の実感としては知らない。
 徳田は幸か不幸か、こうした暗い時代の暗い事件に直面せずに共産党員として生きてきたことになる。
 宮本顕治(みやもとけんじ)や野坂参三をはじめとする多くの日本共産党幹部が無傷ではいられなかった時代に獄中にいたことが、徳球のカリスマ性を保持したことは皮肉というほかない。

 極東諸民族大会に出席するためシベリア鉄道でモスクワへ
 日本共産党が結成される前年の1921(大正10)年10月、徳田はモスクワで開かれる極東勤労者(諸民族)大会に出席するため、東京駅を出発した。
 極東諸民族大会は、第一次世界大戦後に米英仏日伊などの戦勝国の利益配分のために開かれたワシントン会議に対抗するために開催された大会だった。
 いうなれば、「東西冷戦」という世界史的構造は、第二次世界大戦後ではなく、この時代から始まっていた。
 極東諸民族大会に出席するため、徳田は下関で下車して船に乗り換え、関門連絡船で門司に着いたあと長崎に渡った。
 そして長崎から上海を経て南京から中国大陸を北上して満州を横断し、ソ満国境を越えてシベリアに入った。
 あとは見渡す限りの大雪原を走るシベリア鉄道でひたすらモスクワに向かった。
 戦前からの社会運動家の山辺健太郎は『社会主義運動半生記』(岩波新書)で、このとき水曜会のボスだった山川均から聞いた話を書いている。
〈山川均さんもあんな男なんか死んだってどうってことはないから、やれ、と言ったんだと話していました。均さんは「今度つかまったら死ぬ」なんていうのが口癖でしたが、徳球の大胆さには一目おいていました。徳球は荒畑寒村にボロクソに言われていますが、私は革命運動の初期には、そういう無鉄砲な勇気が、ある程度必要なんだと思います〉
 山川均は水曜会時代の徳田について、こう書いている。
〈水曜会時代の徳田君は物の考え方は大ざっぱで、推論的というよりも直感的、だからすこぶる独断的だった。いちばんの特長はエネルギッシュで行動性に富むことだった〉(『回想の徳田球一』東洋書館)
 そこに目をつけて徳田をモスクワに送り込んだのだろう。いわば“鉄砲玉”だった。正確なことはわからないが、当時モスクワに行った琉球人はおそらく徳球が最初だっただろう。
 さらに言うならその帰路、ラクダの隊商と競うようにゴビ砂漠を横断した琉球人も徳田がパイオニアだったに違いない。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記