連載
「沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 ニューヨークからイギリス、ドーバー海峡を越えてパリに渡り、そこから鉄道でベルリン、リガ経由でモスクワに到着した「在米日本人社会主義者団」の渡辺春男は、そのときの興奮をこう回想している。
〈粛然と整列した赤軍の捧げ銃(つつ)の林のなかを闊歩して行くことほど、壮快なものはなかった。私の平凡な生涯をつうじて、このときほど感激をおぼえたことはかつてない〉(『日本マルクス主義運動の黎明』青木書店)
 クレムリン宮殿近くのコミンテルン本部で第一回極東諸民族大会が開かれたのは、1922(大正11)年1月22日だった。
 徳田が極秘裏に東京を出発したのは、前年10月の初旬だったから、ここに至るまで3か月以上かかったことになる。
 会場には、朝鮮、中国、蒙古、ジャワ、フィリピンなどから約180名が結集した。参加者の中には、後に共産主義政権を樹立するフランス占領時代のベトナムから駆けつけたホー・チミンの顔もあった。
 日本分科会で最大の問題になったのは、天皇制のことだった。高瀬清は前掲の『日本共産党創立史話』で、こう述べている。
〈天皇の廃止は理論的には理解し、当然のものであることは十分承知していたが、当時の日本において、これをどう持ちこむか、どう消化させるかが問題であり、検討を要するところであった〉
 高瀬がこのとき思い浮かべたのは、大逆事件のことを聞いているわれわれにとって、同志の一人が、かつて明治天皇の行幸を見たときの感想を日記の中に「竜顔」と記しただけで“不敬罪”に問われ、5年の禁錮(きんこ)に処せられたことだった。
 みんな深刻な顔をする中で徳田球一だけは、例の大ザッパな性格から「そう心配せんでもいいじゃないか」と、こともなげに言い放ったという。
 このとき徳田らはコミンテルン議長のブハーリンや、急速に力を増してきたスターリンに会い、共産主義のイロハを手ほどきされた。
 ロシア革命の立役者のレーニンは暗殺未遂の後遺症で健康を害していたため、彼らとの面会はかなわなかった。
 高瀬は最後に、モスクワで会った革命家たちの印象を記している。
 特にスターリンは強い印象を残した。スターリンは日本人一行が投宿したホテルに毎日やってきて、ボリシェビズムがアナーキズムやサンジカリズム(労働組合主義)とどう違うかを懇切丁寧に教えてくれた。
 渡辺春男は『思い出の革命家たち』(芳賀書店)で、徳田球一を引き合いに出してこう述べている。
〈日本でもこのころは、マルクス・レーニン主義といったハッキリした思想体系への認識があるわけでなく、全体としていろんな思想がまじりあった混沌とした状態のまま「社会主義」の名でよばれていた段階で、徳田球一の表現にしたがえば「ミソもクソもゴッチャ」なのであった〉
 トロツキーも鮮烈な印象を残した。ゆたかな声量とたくみな抑揚は、名優の演技を見ているがごときだった。渡辺はそう回想している。
 しかし、トロツキーの全盛期は短かった。トロツキーはやがてスターリンに追放され、亡命先のメキシコでピッケルによって後頭部を打ち砕かれ殺害された。
 いまにして思えば第一回極東諸民族大会が開かれたときは、まだ共産主義に何の疑いも持たない幸福な時代だった。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記