連載
「沖縄はどう生きるか
④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生 佐野眞一 Shinichi Sano

 ウラルを越え、ゴビ砂漠を横断して帰国の途に
 極東諸民族大会の閉会式は、ペテログラード(現・レニングラード)で行われた。
 ネヴァ河に囲まれたペテログラードはエルミタージュ博物館や、ピヨートル大帝によって建てられた冬宮がある壮麗な街だった。
 ペテログラードから帰国のためモスクワに戻った高瀬は、モスクワの印象を忌憚(きたん)なく述べている。
〈なんという薄汚い街であろう。空はどんよりと曇って雪がチラチラと降っている。ペテログラードの明るさと美しさに比べてモスクワはまったく暗い感じの街である〉(前掲『日本共産党創立史話』)
 徳田球一ら一行が帰国の途についたのは、1922年2月末だった。
 モスクワからは本来ならば6日間くらいで到着できるのに、モスクワ駅を出発して極東地区への入り口のイルクーツクに到着するのに2週間も要した。
 これはこの沿線の各所を、ロシア革命を起こした赤軍と対峙する白衛軍が占拠していたからである。徳田は『わが思い出』(東洋書館)の中で述べている。
〈時々、驛もなんにもない白雪の曠野のまん中に汽車は止つた。「さあみんな出た出た」というので車外にとび出すと、線路にそつて澤山薪が積みあげてあつた。これを乗客が一列にならんでどしどし手渡しながら機關車につみ込まなければならない。こうして機關車は薪をたいて走るのだからおそいことおびただしかつた〉
 徳田らはウラルの山を越えてシベリアの曠野に出た。イルクーツクからチタまで出たところでシベリア鉄道とは別れを告げ、ここから外蒙古の国境までは古風な幌馬車で(トロイカ)で旅をつづけなければならなかった。徳田の回想をつづける。
〈坂を下りきつて、ひろびろとした河原に出た。河原といつても少しも水がない。そのまん中をトロイカは進んでゆくのだ。ふたたびゆるやかな丘をあがつていつた時だつた。
 ただならない光景をそこにみて、われわれ一同は目をみはつた。
 中國人のクーリーが着るあつい綿入れの上衣やズボンがそこら一面に散らばつていた。四、五百も、いやもつとそれ以上だつたろうか。よくみるとただの綿入れ着物が散らばつているのではなくて、胴から切れたり、手だけとれたり、足だけだつたり、首がころがつていたり……人間の死體だつた。胸つまるようなありさまであつた。
 われわれの案内者である自動車運轉手の同志は、トロイカをとめさせた。自動車に機關銃をすえつけて、タタタ……と片つぱしからなぎ倒していつた、そのときの気持といつたら、何ともいえなかつたと運轉手の同志は、大雄瓣でしやべり出した。同行のロシア語のよくわかる同志に通譯してもらうのだから、十分に氣分が出てこないけれども、手をふり目をかがやかせて熱をこめたしやべりざまを見ていると、當時の彼の活躍ぶりがしのばれるのだつた。
 ここが、決然彼をふるい立たせた古戦場であつた。赤軍の一兵士として、彼はこの荒原でウンゲルン軍と砲火をまじえ、大戦闘の結果、ついに反革命軍をかいめつさせたのであつた。オオカミに食い荒されたあと、くされはてて、散らばつた残がい――これらはすべてその時の白衛軍の戦死體だつた〉
 徳田のこの文章からは、国家を二分したロシア革命の惨状が目に見えるように伝わってくる。



 
〈プロフィール〉
佐野眞一(さの・しんいち)
ノンフィクション作家。1947年、東京生まれ。97年『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。2009年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。著書に、『巨怪伝』『東電OL殺人事件』『だれが「本」を殺すのか』『沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史』『沖縄戦いまだ終わらず』など多数。
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④沖縄県人に活を入れる“琉球一の男”徳田球一、波瀾万丈の人生
③誰にも知られたくなかった沖縄の戦前の謎と戦後の闇
②元海兵隊員も反対の座り込みに参加する辺野古埋め立てと高江のヘリパッド基地
①うるま市女性暴行殺人事件傍聴記