連載
ぼくらの遍路は
関口 尚 Hisashi Sekiguchi

 網戸の向こうから波の音が聞こえてくる。二階から見える景色は真っ暗だ。海岸沿いの街灯はみんな消されていて海の姿は見えない。ただただ闇が黒い壁のように立ちはだかっているだけ。花凛(かりん)は目をつぶって繰り返される波の音に耳を傾けた。想像で浮かんだ海は恐ろしいほど広大で、引きずりこまれる自分を想像してぞっとした。頭頂部まで海にずっぽりと沈み、苦しさで吐き出す泡沫の音まではっきりと聞こえた。
「ウミガメちゃん、来るかなあ」
 麻耶(まや)が後ろから話しかけてきて、はっと我に返る。「さあ」とだけ短く答えた。
「せっかくなんだから産卵を見たいよねえ」
 花凛はこくりと頷いた。日和佐の大浜海岸はウミガメの産卵地として有名だという。遍路道とは少し外れているが、太陽のたっての希望で海岸そばにあるうみがめ荘に泊まったのだった。
 産卵期のウミガメはひどく敏感らしい。海岸周辺は街灯を灯さず、車の乗り入れも禁止。大声を出したり、花火をやったりするのも禁止だ。花凛たちが宿泊しているうみがめ荘は夜八時になると遮光カーテンを閉めることが義務づけられ、ロビーや食堂も電灯が落とされる。風呂もそれ以前に入っておく決まりだ。街ぐるみでウミガメの産卵地を守ろうとしている土地だった。
「ねえねえ、花凛は動物は大丈夫?」
 麻耶が語りかけてくる。質問の意図がわからない。遮光カーテンを閉めて麻耶に向き直った。それまで花凛がカーテンを開けて外を眺めていたので、部屋の明かりは落としてある。カーテンを閉めたことで真っ暗になった。
「大丈夫って?」
 暗闇の中で答える。この夏の時期、遮光カーテンを閉めなくてはならないため、冷房は入れっ放しになっている。エアコンの低くて無愛想な作動音が、鼓膜にいやな圧迫感を与えてくる。
「ウミガメみたいな爬虫類は大丈夫なのかなって」
 麻耶が立ち上がって電気を点けた。蛍光灯が切れかかっているのか、何度か明滅したあとピンと小さな音を立ててやっと点く。花凛も麻耶もうみがめ荘の浴衣姿だ。
「大丈夫」
「でも、ウミガメって大きいんだよ」
「平気」
「そっか」
 話が弾まない。会話はいつも短いやり取りで終わってしまう。でも、これでいい。
 花凛は自分の布団に寝転がった。ウミガメがやってくるのは真夜中から早朝にかけてだという。やってきたら館内放送もあるそうだ。だったらそれまで眠っておこう。眠るのはいい。人と交わらなくて済む。いやなことを思い出さなくて済む。
 深夜一時に揺り起こされた。麻耶が興奮気味に花凛の体を揺さぶっている。いやな夢を見ていた気がするけれども内容は思い出せない。いやな夢を見ていたという不快感だけが頭にこびりついている。



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〈プロフィール〉
関口 尚(せきぐち・ひさし)
1972年、栃木県生まれ。99年、茨城大学大学院人文科学研究科を修了。
2002年、『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞して、作家デビューする。2007年、『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。
著書に、『君に舞い降りる白』『パコと魔法の絵本』『はとの神様』などがある。
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