連載
ぼくらの遍路は
10 関口 尚 Hisashi Sekiguchi

 最初は熱かったシャワーを徐々に冷水に近づけていく。もうこれ以上冷たくしたら「ひえー」という悲鳴を上げそうだ、というところで麻耶(まや)はお湯の蛇口を閉めるのをやめた。暑がりなので風呂上がりにまた汗をかいてしまう。冷水一歩手前の水を浴びてクールダウンするのだ。
「お待たせ。お風呂空いたよ」
 宿の女子部屋に戻り、花凛(かりん)に告げる。花凛は畳にうつ伏せになって寝ていた。
「ねえ、花凛」
「起きてる」
 花凛がのろのろと体を起こす。足を崩して座った。憂い顔をしている。同じ女子でありながらきれいな子だな、なんて見入ってしまいそうになる。
「玲(れい)のことが心配?」
 尋ねると花凛はためらいを見せつつ頷いた。
 玲の記憶が雲辺寺(うんぺんじ)で戻ってきた。十年あまり失われていた記憶がついに。麻耶としては宿に到着したらすぐに祝杯を挙げたい気分だった。けれど、そうしたおめでたい空気はすぐに吹き飛んだ。玲の様子がおかしかったからだ。ずっとぼんやりしていた。なにを質問しても生返事で、目も虚ろなまま。記憶が本当に戻ってきたのかどうかも疑わしいくらいだった。
 メンバーの誰もが病院へ行くことを勧めた。しかし、玲は金剛杖にすがりつくようにして立ち上がると、次の六十七番札所である大興寺(だいこうじ)への遍路道を進み出した。引き留めても立ち止まらない。返事もしない。しかたがないのでつき添う形でお遍路を続行したのだった。
 大興寺には納経所が閉まるぎりぎり一分前に駆けこんだ。見込みよりだいぶ遅れてしまった。玲が速く歩けなかったためだ。頭が痛いのか急にこめかみを押さえてうずくまってしまう。休ませようとすれば拒んでまた歩く。やけに頑固で玲らしくないと言えば玲らしくなかった。
 観音寺(かんのんじ)駅そばにある宿へ到着したのは夜八時のこと。玲は宿に着くなり風呂にも入らずに眠ってしまった。
「記憶が戻ってくるってどういう感じなんだろうね」
 麻耶は窓際に腰を下ろし、花凛に尋ねた。畳に落ちていたうちわを拾い、ぱたぱたと扇ぐ。
「そうだね、どういう感じなんだろう。玲がなにも言ってくれないから」
「ずっとぼんやりだったもんね。急に記憶が戻ってくるとああなっちゃうのかな」
「ああなっちゃうって?」
「パソコンだってさ、大容量のデータを急に入れたら処理能力が追いつかなくて動作が鈍くなるでしょう。玲も大量の記憶が急に戻ってきて脳みその処理能力が追いつかないのかも」
「なるほど」



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〈プロフィール〉
関口 尚(せきぐち・ひさし)
1972年、栃木県生まれ。99年、茨城大学大学院人文科学研究科を修了。
2002年、『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞して、作家デビューする。2007年、『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。
著書に、『君に舞い降りる白』『パコと魔法の絵本』『はとの神様』などがある。
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