連載
ぼくらの遍路は
12(最終回) 関口 尚 Hisashi Sekiguchi

 歩きながら深呼吸をする。この遍路道の静謐さが聴覚を繊細にしてくれていた。世界は音で満ちているな、なんて感動する。自らの呼吸音、下草を踏みしめる音、衣擦れの音、鳥の囀(さえず)り、蝉の声、虫の羽音、金剛杖の鈴の音、風に揺れる葉のざわめき、せせらぎの音。
 花凛は足を止めて、耳を澄ました。聞こえないはずの音まで聞こえる気がした。蟻の足音、シダ植物が葉を開く音、鳥がまばたきする音、蛇が蛇行して進む音、猪の心臓の音、木々の中を流れる水の音、太陽の光が降り注ぐ音。
「もっと!」
 高揚してきて花凛は思わず叫んだ。はっと我に返って周囲を見渡す。前を歩いていた玲(れい)の背中はもう見えないし、花凛の後ろを歩いていたはずの太陽の姿も見えない。照れくさくなってうつむいて歩き出す。
 静謐さと高揚感から生まれた先ほどの新しいメロディーを、スマートフォンに歌って録音する。歌がいくらでも生まれてくるような活力を感じる。美しい歌を湛(たた)えた井戸が自分の胸の底に湧いたかのようだ。その歌たちのみずみずしさが体の隅々にまで伝わっていく。気力が満ち、どんなことでもできそうな万能感に背中を押された。
 歩きながら歌声が出た。鼻歌ではなく、きちんと発声した歌。
 ああ、自分の歌声ってこうだったっけ。
 歌声との久しぶりの再会に酔いしれる。
 長らく歌っていなかったことが幸いしているのか喉の調子がいい。高音がすっと伸びた。歌声は木々のあいだをどこまでも響き渡っていく。この山に受け止められているような感覚があった。
 また歌います!
 世界中に大声で触れ回りたいような心地でいっぱいになった。

 朗らかな心地で歌いながら歩いていると斜面の上に玲を認めた。笑顔でこちらに手を振っている。急いで斜面をのぼった。
 なぜかわからないけれど、玲は宿を出たときからずっと先頭を歩き、率先して班を率いている。ルートの確認や札所ごとの到着予想時刻も調べてくれていて、お昼を食べられる場所まで検索して見当をつけてくれた。麻耶(まや)が担っていたコーディネーターとしての役割を、玲がほとんど肩代わりして行っているのだ。
 少年時代の玲はミニバスケットボールクラブに所属していて、バスケもうまく、人望もあったという。記憶が戻ったことで、そのころの快活さがよみがえったのだろうか。
「気持ちのいい遍路道だね」
 玲が穏やかに言う。
「ここはいままでの遍路道でいちばん好き」
「ぼくも同じこと思った」
 ふたりで笑い合い、いっしょに歩き出す。
「体調はどう?」と花凛は尋ねてみた。「記憶が戻ってきてから頭が痛くなったりしていない?」



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〈プロフィール〉
関口 尚(せきぐち・ひさし)
1972年、栃木県生まれ。99年、茨城大学大学院人文科学研究科を修了。
2002年、『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞して、作家デビューする。2007年、『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。
著書に、『君に舞い降りる白』『パコと魔法の絵本』『はとの神様』などがある。
Back number
12(最終回)
11
10