連載
ぼくらの遍路は
12(最終回) 関口 尚 Hisashi Sekiguchi

「体調はいいよ。頭痛もない。だけど、最初は本当にびっくりしたよ」
「びっくりって?」
「過去があるってこんなふうなのかって驚いた。でも、それも慣れてきたよ。当たり前だもんね、過去があるって」
 玲が微笑む。顔つきが逞しくなった印象がある。これも過去が戻ってきた影響なのだろうか。
「びっくりならこっちだってしたよ。記憶が戻ってきたばかりの玲って、ずっとぼうっとしているんだもん」
「飽和状態って言ったらいいかな。それまでの自分がばーんと弾けてなんだかわからなくなっちゃってさ。そこからやっと定まってきたというか」
「定まってきた?」
「記憶が戻る以前は、いまの自分って本当の自分なのかな、なんてことでよく悩んでいたんだ。本当の自分はほかにいるんじゃないか、という感覚がずっとついて回っていたんだよ。でも、そういう存在の不確かさみたいなもんが消えたんだ。ズレがなくなった。いまはもう自分は自分なんだって言いきれるよ。ここにいるぼくこそまぎれもなくぼくなんだ」
 玲は表情も口調もなにもかも晴れ晴れとしていた。
 八十二番札所の根香寺の山門には、人間よりはるかに大きな藁草履がかけられていた。駐車場からは牛鬼という妖怪のブロンズ像が見えた。妖怪のはずなのにユーモラスな姿をしている。そのどことなく間の抜けた表情とポーズを太陽が真似てみんなを笑わせた。
 次の八十三番札所の一宮寺(いちのみやじ)までは約十五キロ。山を下っていく。下りの途中、視界が開けて瀬戸内の海を一望できた。アートの島として有名な直島(なおしま)が見え、その奥に大地が霞んで見える。対岸の岡山県だ。
 花凛の前を歩いていた玲が足を止めた。無言で瀬戸内の島々を眺めている。その横顔は凛々しい。
「いまのペースは速くない?」
 玲が尋ねてくる。
「ちょうどいいよ」
 そう答えると玲は笑顔で頷いて歩き出した。その一瞬のことだった。
 前を向こうとする玲の瞳に悲しみがよぎった。花凛は慌ててあとを追い、玲の横顔を盗み見た。もう凛々しい横顔に戻っている。でも、玲がその胸に隠し持っているものを垣間見てしまった気がした。
 玲の後ろを歩きながら彼の胸の内に思いを馳(は)せる。わかったことがあった。今日の玲はただただ積極的に班を率いて歩いているわけじゃない。よみがえった少年時代の快活さが反映されているわけでもない。玲はいま悲しみを振りきるために前へ前へと進んでいるのだ。
 記憶が戻ったことで、玲は母親である美幸さんの死を改めて嘆き悲しんだはずだ。それは母親の死をちゃんと悲しみたいと言っていた玲にとって、待ち望んでいた悲しみのはずだ。けれど、とてつもなくつらいはず。美幸さんとしか呼ばなかった自分を、激しく責め抜いている最中に違いない。
 そうした玲の深い悲しみや後悔を想像して、花凛は胸が張り裂けそうになった。そして、また新たに歌の種が生まれたと思った。悲しみを乗り越えようとする強くて美しい歌の種が。



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〈プロフィール〉
関口 尚(せきぐち・ひさし)
1972年、栃木県生まれ。99年、茨城大学大学院人文科学研究科を修了。
2002年、『プリズムの夏』で第15回小説すばる新人賞を受賞して、作家デビューする。2007年、『空をつかむまで』で第22回坪田譲治文学賞を受賞。
著書に、『君に舞い降りる白』『パコと魔法の絵本』『はとの神様』などがある。
Back number
12(最終回)
11
10