よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第一話 金泥の櫛(くし)

島村洋子Yoko Shimamura

   十七

 梅香は秘密を誰にも言っていなかった。
 それは「よしさん」のことである。
 覚えがないどころか、よしさんは梅香たち姉妹には兄のような懐かしい人だった。

 武州(ぶしゅう)生まれの吉蔵(よしぞう)には夢があった。
 それは生まれついての手先の器用さとその才を活(い)かして良い職人になることである。
 金物の細工をやったり彫物を学んだり、反物に下絵を描く仕事をしたが、結局は漆職人になった。
 生まれ故郷から出てきたあと転々といろいろな職人に弟子入りはしたのだが、これだと思う師匠には出会わなかった。
 目上の職人もだいたい帯に短したすきに長しというのか、尊敬できる職人がいなかった。
 漆をやっている職人は漆器という、重箱や硯箱(すずりばこ)、あるいはお椀(わん)を作るのが仕事なのだが、なかなかこれという技の者は少ない。
 本当に素晴らしい腕を持った者はやはりどこかの大名が召し抱えていて、自分のような身分の低い者が出会えるわけもないのだろうか。
 素晴らしい師匠との出会いを夢想していた吉蔵がほとんどあきらめかけていた時に浅草の観音様の前でとてつもなく美しい櫛をつけている娘を見かけた。
 黒に輝く漆の中に小菊や野花、あるいは水鳥など、どこかの古刹(こさつ)の襖絵に描かれているような花鳥風月がその小さな櫛の中に存在していた。
 追いかけて見知らぬ娘に話しかけるのは気が引けたが、いまこれを見逃しては一生後悔すると思った吉蔵は、勇を鼓して娘を呼び止めてみた。
 突然のことに驚いた様子の娘は櫛のことだとわかると、ほっとしたように笑って言った。
「これはよく褒められるんです。どこで手に入れたのかと尋ねられることもあります」
 と自慢そうに教えてくれた。
 神田の「塗安(ぬりやす)」という職人の作ったもので、それほど値の張るものではないが、とにかく仕事が丁寧でうまいらしい。
 出入りの小間物屋も何人かいるが、とにかく仕事にこだわりがあって時間がかかるので皆いつも待たされているという。
 それでも待った甲斐のある品物なので皆、手に入れることを望んでいるらしい。
 自分が弟子入りするのはこれを作った人しかいないと心に決めた吉蔵は神田まで出かけ、あばたの顔を土間に擦り付けるようにして頼みこみ塗安の弟子となった。
 何ヶ月も何年も直接、技を教えてくれることはなかったが、漆職人の安兵衛(やすべえ)は意地の悪い人間ではなくどこかしら吉蔵の向上を願っているようであった。
 頑固は頑固だったが、その頑固さには理由があるように吉蔵には思えた。
 つらい修業に耐えられたのは、技を修得したいという強い気持ちだけではなく、その安兵衛の頑固さの底にある鬼気迫るような美に対する愛情への共感があったからなのかもしれない。
 吉蔵が独立し、それなりに食えるようになったあとも、塗安は大儲けはしていないが堅実な仕事をしていると噂に聞いていた。
 しかしここ何年か時々、同業者から入ってくる話では、妻の長患いで薬の費用がかさみ、生活が逼迫(ひっぱく)しているらしい。
 やがて看病の甲斐なく妻が亡くなってしまい、生活が荒れて借金が増えて、あやしい仕事をしているとも聞いた。
 吉蔵は矢も盾もたまらず、自分の店をしばらく閉めて江戸に出てきたのだった。
 懐かしい町並みは自分の修業時代と大きな変化はなかったが、ただ塗安の店だけがぼろぼろになっていた。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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