第一話 金泥の櫛(くし)
島村洋子Yoko Shimamura
「ごめんやしてご無沙汰(ぶさた)いたしております。吉蔵でございます」
そう言って入口で頭を下げた吉蔵は、ここは勝手知ったるところとずんずん入っていった。
昼だというのに中は真っ暗だった。
しんとして音もなかった。
明るい外から入ってきたので目がなれず奥が見づらいために何もわからない。
誰もいないのかと吉蔵が踵(くびす)を返そうとしたとたん、音がかさかさと聞こえた気がした。
暗い中に浮かぶものがあった。
大きな犬かと思ったが、それは横たわった老人だった。
はじめはなにかわからなかった。
六十といえばもう立派な老人だが、薄暗がりに横たわっている人間はそれよりもずいぶん年寄りに見えた。
きっと安兵衛の姿なのだろうと察しはついたが、かつての腕利きの名職人の面影はそこには見出せない。
吉蔵は目を凝らした。
老人の横には貧乏徳利が転がっていた。
そもそも安兵衛は下戸だったはずだ。
なにが起こってしまったのだろう。
「吉蔵でございます」
もう一度、丁寧に頭を下げてみたが老人は身じろぎもしなかった。
そういえば小さな娘がふたりいたはずだが、あの子たちはどこに行ったのだろう。
「おかみさんがお亡くなりになったのも知らず、本当にご無礼をいたしました」
頭を下げる吉蔵に返事がわりの湯呑み茶碗が飛んできた。
土間に叩(たた)きつけられた湯呑み茶碗が割れる音を聞きながら、やはり来るべきではなかったと吉蔵は深い息をついた。
あきらめて出て行こうとした時、違い棚にいくつか櫛や笄が置かれているのに吉蔵は気がついた。
一目でそれらが「塗安」のかつての仕事ではない、まがい物だとわかった。
もしかしてこれは、自分の作品をひとつ見本に型を作り、あとは絵を抜いて大量に同じものをこしらえているのではないのか。
あんなに誇り高い仕事をしていた「塗安」がこんな仕事をしているなんて。
吉蔵は情けなさに胸がつぶれる思いがした。
話ができそうもないので、とりあえず表に出てみるとそこには懐かしい顔があった。
裏にある団子屋の仕込みを手伝っていた女である。
当時は可愛い娘だったがもうすっかり中年になっている。
気がきく良い女だが、お喋りで有名だった。
「あ、あんたは」
向こうから人なつこい顔で寄ってきたので、吉蔵はさりげなく自分のこれまでのことを話してみた。
今は自分で塗りの店をやっていること、神田に来るのは久しぶりで最近の塗安のことはよく知らなかったことなどを。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。