よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第二話 おばけ騒ぎ始終

島村洋子Yoko Shimamura

   四

 何をおいても足抜けというのは女郎の世界ではご法度である。
 吉原大門(おおもん)の横には四郎兵衛会所(しろべえかいしょ)という見張り小屋があって、女の出入りを絶えず見張っているし、周囲にめぐらした塀は女の身ではなかなかのぼって出られるものでもないし、お歯黒どぶという堀も四方を取り囲んでいる。どぶといっても幅五間(約九・一メートル)、深さ二間というから相当なものである。吉原に売られてきたが最後、まず抜け出せない。
 親や女衒にそれなりの金を払った店のほうでも大切な商品に逃げ出されては困るので絶えず目を光らせている。
 それでも年に何度かは逃げようとする女が中にはいる。
 理由はそれぞれで、好きな男と駆け落ちしようとする者もいるし、親が病気と聞いて一目会いたいと思う孝行娘もいるし、朋輩(ほうばい)らにいじめられて居場所がなくてこのままここで死ぬくらいなら一度でいいから外に出たいと思う者もいる。
 しかしお峰(みね)の場合はそういうこととは話が違っていた。
 お峰は自分で逃げるというより母親に吉原からうまく逃げておいでといま、まさに手引きされようとしているのである。
 下総中山(しもうさなかやま)で貧しくはあったがそれなりに生きてはいける暮らしをしていたお峰に突然の不幸が訪れたのは一昨年のことである。
 母が再婚した若い父とお峰とはなさぬ仲だったが、この新しい父はまじめに桶(おけ)を作ると評判の職人だった。
 母のおつねは江戸の育ちで由緒ある神職の娘で巫女(みこ)の仕事もしていたというが、勝ち気で有名だったらしい。
 旦那(だんな)が作った風呂桶の代金を踏み倒そうとしたやくざの親分にひとりで掛け合って代金を回収したとか、かっぱらいを走って追いかけて捕まえたとか近所では伝説があるような女だったが、子どもたちには優しかった。
 お峰の本当の父親、つまりおつねの最初の亭主とは身分違いで反対されて駆け落ちしたらしく、派手な逸話もあるようだったがお峰にはよくわからない。
 ただ江戸からおよそ五里(約二十キロメートル)、半日がかりで逃げてくるまでは良かったが、ろくに働きもしなかったので母が追い出したと聞いている。
 それから再婚したのがいまの父だが、血のつながらないお峰とおつねのあいだにできた実の子どもであるお峰の弟とを区別することもなく優しく接してくれ、四人で下総中山でそれなりに幸せに暮らしていた。
 しかしある日、母親が親類の葬式の手伝いで佐倉(さくら)のほうへ出かけ、三、四日、家をあけていた時にお峰はかどわかされたのである。
 父親はすぐに佐倉には向かわず、母と交代であとから行くという話で、その夜は近くに飲みにいって遅くまで帰らなかった。
 たまにはあることなので、お峰と弟は板戸に閂(かんぬき)をかけて先に寝ていたのだが、深夜にとんとんと戸を叩(たた)く者があった。
 ようやく父親が帰って来たな、と思ったら知らぬ男が立っていた。
 それは背の低い出っ歯の男だった。
「どういうご用件でしょう?」
 お峰は尋ねた。
 こんな夜中に見知らぬ者の訪問は恐ろしかったが、それでも田舎(いなか)の暮らしで慣れている。
 大声を出せば近所の誰かが来てくれる、という安心感がどこかにあった。
「おっかさんが葬式の最中に倒れて、ぜひお峰ちゃんに来てくれ、と言ってるんで使いに来ました、佐助(さすけ)と言います」
 色の黒い男はそう名乗った。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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