よみもの・連載

吉原べっぴん手控え帳

第二話 おばけ騒ぎ始終

島村洋子Yoko Shimamura

 材木問屋の総仕舞が近づいてきて心は沈んでいる龍田川だったが今日は陸奥(むつ)の大藩の若君が来る準備をしなければならなかった。
 若君は静かであか抜けた良い男ではあるが、何を考えているのかつかみどころがない。
 とはいえ江戸に来るたびに春日屋に通ってきているところを見ればこちらのことを気に入っているのだろうとも思う。
 龍田川がそんな思いをめぐらしているとこりんが帰って来た。
「お峰さんが見当たらない様子でありんす」
 お峰。
 はて。
 あまりに数がいるので名前を聞いてもとっさにはどんな女だったか思い出せない。
 お峰が源氏名なのか本名なのかもわからないが、ある程度の位になれば顔くらいはわかるので、お峰というのは格子にはりついている女郎ではないかと考えられた。
 しかしどうやって逃げたのだろう。
 龍田川が気になるのは逃げた理由ではなく、逃げた方法である。
 逃げたい気持ちは誰しも同じだからだ。
 どんなにいい着物が着られようと白いおまんまがいただけようと、こんなところで暮らしたい女はいない。
 ただ店の中にも外にも見張りはいるし、塀をのぼるにも高すぎる。
 たとえ塀を越えられても下りた所には深いお歯黒どぶがある。
 正面大門は夜四つ(夜十時頃)という閉門時間があるし、そのあと一刻(いっとき)くらいは開いていても必ず番人がいる。
 それまでの時間に大門から正式に出ようにも、引手茶屋(ひきてぢゃや)発行の女切手が必要である。
 それはかなり精巧なものでなかなか偽造できる代物ではないし、男装したり別の女に成り済ましても四郎兵衛会所の人間の目は誤魔化(ごまか)せるものではない。
 はあはあ、と息を切らせておふくが帰って来た。
「会所のほうではあやしい出入りはなかった、って言ってるらしいんでありんす」
 ならばどこかわからないように木の下に抜け穴でも作ったのだろうか。
 いや、そんな抜け穴があればみんなくぐって外に出ている。
 穴の場所がわかればこのわちきだって。
 龍田川は溜(た)め息をついた。
「あんたが見たおばけならいくらでも勝手に出ていけるのにね」
 その時おふくがこのあいだのことも含めてなのか、こりんをからかうように笑って言った。
「ほんとほんと、おばけなら簡単なことだね」
 それを微笑(ほほえ)みながら見ていた龍田川だったが、あ、と気がついた。
 おばけならたしかに出ていけるかもしれない。
 そうだ。逆に考えれば、おばけが出ていたのはそれが理由かもしれない。
 もしそうだとしても証拠もないのに滅多なことを口にはできないのである。
「さあ、そろそろおまえたちも支度をしなんし、陸奥あたりの唄は難しいんでありんすからね」
 龍田川は禿たちのほうに向き直って言った。

プロフィール

島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。

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