第二話 おばけ騒ぎ始終
島村洋子Yoko Shimamura
十
お峰のからだはまだ震えていた。
きょろきょろしてはいけないと言われていたので、できるだけいつも母親がしていたように歩いたつもりだったが、誰かに怪しまれているのではないかと気が気ではなかった。
大門をくぐる手前で四郎兵衛会所の番人に母が持っていた女切手を差し出す時、手が震えているのに気がついて自分でも驚いたのだが、若い男はおまえのことはよく知っている、とでも言うように顎をしゃくってろくにこちらを見もしなかった。
大門をくぐってからは一気に駆け出したい気持ちになったが、母に言われたとおりにゆっくりと歩いて五十間道(ごじっけんみち)を抜けた。
久しぶりに見る外の景色は何もかもが広くて光を放つように輝いていた。
囲いのないところで息を吸うのは何年ぶりなのか自分でもよくわからなかった。
土手から少し歩いたところからは急に寂れてきて、日本堤(にほんづつみ)の土手がただ続いているだけだった。
しばらく行くと母が言っていたように駕籠が待っていた。
駕籠かきの男たちはお峰を見ると何も言わずに乗せてくれた。
弟が待っている住まいに行くのだと思うと喜びに胸は震えたが、自分と衣裳(いしょう)を交換して女切手をこちらに渡してくれた母はまだ神社にいるはずである。
無事に出てこられるのだろうか、それがうまくいかないと成功とはいえないのだと思うとお峰は心配でならなかった。
お峰の母であるおつねは、あの時何十年ぶりかで神主である父と母に挨拶をしてから事情を話した。
とにかく謝罪よりも何よりも自分がいない時にかどわかされた娘を助け出すほうが大事である。
見たこともない孫が近くの春日屋で客を取らされていることを知った父母は衝撃を受けたようだったが、神主である父はおつねの話にゆっくりとうなずき、
「とにかく孫を救い出すことが第一番なのだが、おまえもわかっているように当社はたくさんの廓(くるわ)の主人たちの浄財によって成り立っている。ことを荒立てたくないのだ」
と言った。
ずいぶん髪の毛が薄くなって昔ほど声の張りがないのがおつねには悲しかった。
父の祝詞(のりと)は声がよくとおるのでありがたいと評判で、かつては氏子たちを感心させたものであったのに。
「おまえは自分のやったことがどういうことかわかっておるのだろう。子を持ってはじめてわかったこともあるだろう」
玄関先で立ったまま、おつねは涙を流した。
自分は本当に親不孝をしたのだ、なんと詫びても詫びようがない、と。
「大事に育てた娘が突然いなくなったら親がどんな気持ちになるのか、おまえはその身で知らされたことになる。しかもこのような思ってもみない形で。天網恢々(てんもうかいかい)、疎(そ)にして漏らさずというのはこういうことじゃ」
父の横に立っている母を見ると黙って涙をぬぐっていた。
髪には白いものが交じり額には皺(しわ)も深く刻まれていた。
- プロフィール
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島村洋子(しまむらようこ) 1964年大阪府生まれ。帝塚山学院短期大学卒業。1985年「独楽」で第6回コバルト・ノベル大賞を受賞し、作家デビュー。『家族善哉』『野球小僧』『バブルを抱きしめて』など著書多数。