プロローグ
新堂冬樹Fuyuki Shindou
いつものように、木漏れ日が枝葉の隙間から優しく降り注ぐ。
いつものように、風に乗ったピアノの調べがどこからか流れてくる。
いつものように、雀(すずめ)たちが地面を嘴(くちばし)でつつきながら先導してくれる。
いつもと同じ樹々の匂い、いつもと同じ足踏みするような時の流れ、いつもと同じ二人だけの無言の会話……。
午前中の日課……南野(みなみの)はスカイブルーのリードを左手に、パステルの大好きなパトロールコースの並木道を歩いた。
あたりを注意深く見渡しながら悠然と歩くパステルの姿から、南野は散歩のことをパトロールと呼んでいた。
七年間……雨の日も、雪の日も、灼熱(しゃくねつ)の日も、台風の日も、パトロールを休んだことはなかった。
三十九度の高熱でも、頭が割れそうなひどい二日酔いでも、徹夜明けでも、足を挫(くじ)いても、パステルとともにパトロールに出かけた。
二人にとって朝夕のパトロールは、なににも代えがたい貴重なひとときだった。
犬の一日は、人間の一週間の速さで流れる。
人間にはなにげない一日でも、犬には大好きな飼い主と触れ合う一日一日が大切な宝物なのだ。
パステルと出会うまでの南野は、犬を飼う人の気持ちがわからなかった。
犬に費やす時間があるのなら、一つでも多くの作品を作りたかった。
なにより、犬がいたら海外や地方にロケに行くときに誰かに預けなければならない。
決して犬嫌いではなかったが、消費する時間を考えるとすべて仕事に回したかった。
昔から不器用で、一つのことに集中するとほかが見えなくなる性格だった。
そもそも、家庭を顧みる余裕のなかった男に犬を飼う資格はない。
犬に愛情と時間を注げる人間のまねはできないし、したくもない……隣家の老人の斎藤(さいとう)を見ていて、南野はいつもそう思った。
斎藤が家族同然に接していた雌犬(めすいぬ)は、出産後に感染症にかかり死んだ。
見ているのがつらいほど、斎藤は憔悴(しょうすい)した。
我が子を語るときの明るく笑顔の絶えなかった老人の瞳は虚(うつ)ろになり、抜け殻のようになった。
いわゆる、ペットロスというやつだ。
数ヵ月後、そんな斎藤に笑顔が戻った。
以前、貰(もら)われていった子犬のうちの一頭の飼い主が海外赴任することになり、斎藤に子犬を戻してきたのだ。
人生とは、わからないものだ。
その子犬……パステルを、南野は飼うことになったのだから。
- プロフィール
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新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無闇地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『黒い太陽』『枕女王』など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。