よみもの・連載

永遠の犬

第三回

新堂冬樹Fuyuki Shindou

「名前なんか知っても、しようがないから」
「あと数時間は一緒にいるんだから、覚えていたほうがいいわよ」
「数時間? 連れて行かないのか!?」
 南野は、素頓狂(すっとんきょう)な声で訊ねた。
「家を出るのに、連れて行けるわけないでしょう? 午後にお隣のおじいちゃんが迎えにくるから、それまで世話してあげて」
「犬を返してから、家を出ればいいだろう」
「あなたの言う通りだわ。人間、長年一緒に過ごしてもわからないものね。あなたがこれほど、人の気持ちがわからない自己中心的な人だとは気づかなかったわ。出て行く時間まで、指定される覚えはないから。じゃあ、そういうことで」
 冷めた口調で言うと、聖が踵(きびす)を返した。
「ちょっと、待てよ」
 南野はソファから立ち上がり、聖のあとを追った。
 突然、聖が足を止め振り返った。
「どうして? 私と別れたくないから? それとも、パステルの世話をさせたいから?」
 聖が涙に潤む眼で、南野をみつめた。
 これが最後の機会……直感でわかった。
 聖と別れたいわけではない。
 できるなら、これまで通り夫婦でいたかった。
 だが、聖が求める夫になれないことは南野にはわかっていた。
 人を信じることも信じられることも拒絶する男と暮らしても、彼女は幸せを掴(つか)めない。
 そもそも、幸福の存在さえも否定している南野と夫婦生活を続けても、聖は不幸になるだけだ。
 気づくのが遅すぎた。
 聖のためを思えば、もっと早くに決断するべきだった。
 尤(もっと)も、相手の気持ちを思いやれる人間なら、こんな結末は迎えなかっただろう。
「いま、会社のことで頭が一杯で、犬の世話をする余裕はないんだ」
 敢(あ)えて、愛想を尽かされる理由を口にした。
「ありがとう。私が出て行くことより、自分のことしか考えられないあなたを見て、覚悟ができたわ。悪いけど、多分、最後のお願いになると思うから、パステルのことをよろしくお願いします」
 必死に涙を堪(こら)え、毅然(きぜん)とした口調で言うと聖が沓(くつ)脱ぎ場に下りた。
「でも、あなたを愛したことを後悔していないわ」
 振り返り、聖が微笑んだ。
 なにかが、心の扉をノックした――無視した。
 喉まで出かかった言葉――飲み下した。
「ごめんな」
 南野は敢えて、男として、夫として最低の言葉を口にした。
「パステル、じゃあね」
 聖が、子犬……パステルに微笑みかけ、南野に視線を移した。
 数秒、みつめ合った。
 哀しげで、優しく、怒りに満ち、労(いたわ)りに溢(あふ)れ……様々な感情の入り混じる瞳で、聖は南野をみつめ続けた。
 最後に、記憶に刻み込むとでも言うように。
 無言のまま視線を逸(そ)らした聖は、呆気なくドアの向こう側に消えた。
 しばらく、南野はその場から動かなかった。
 眼を閉じた。
 物凄(ものすご)いスピードで、記憶が巻き戻ってゆく……。

プロフィール

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無闇地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『黒い太陽』『枕女王』など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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