よみもの・連載

永遠の犬

第八回

新堂冬樹Fuyuki Shindou

 パステルは南野が足を止めると立ち止まり、近づくと駆け出すことを繰り返した。
「いい加減に……」
 南野の視界が流れた。
 潰れた糞に足を滑らせ、南野は尻餅をついた。
 咄嗟(とっさ)についた両手に、生温い感触が広がった。
 駆け寄ってきたパステルが、南野の顔を舐めた。
 鼻孔の粘膜を、異臭が刺激した。
 パステルのクリーム色の被毛は、自らの便で茶褐色の斑(まだら)になっていた。
「うっ、臭っ……」
 南野は、顔を背けた。
 三村が大笑いする声が聞こえた。
「ああ……これは失礼しました。パステルちゃんと南野さんのやり取りがあまりにもユニークでつい……」
「いえ、こちらこそ、お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありません。いつもは、こんなことをする子ではないんですが……本当に、すみません」
 南野は立ち上がり、三村に詫びた。
 足元でお座りしたパステルが、笑顔で南野を見上げていた。
 三村の腕で排尿し、糞に塗(まみ)れて暴れ回る――三村が心変わりするには、十分過ぎる失態を見せてしまった。
「いやいや、お気になさらずに。アピールですよ」
 三村が、にこやかな表情で言った。
「アピールですか?」
 南野は三村の言葉を鸚鵡(おうむ)返しにした。
「わかりませんか? 僕を飼ったら大変なことになるぞ。部屋がめちゃくちゃになるぞ。だから、僕を飼うのはやめたほうがいいぞ。パステルちゃんは、必死にそう訴えているんです。健気(けなげ)じゃないですか」
「健気なんて、とんでもない。あの……もう、パステルの里親の話は無理ですよね?」
 南野は、恐る恐る訊ねた。
「とんでもない。パステルちゃんの忠誠心を目の当たりにして、惚れ直しました。ですが、その忠誠心は南野さんに向いています。今夜、改めてよく考えてみてください。それで心変わりしなければ、明日、お待ちしていますので。では、失礼します」
 三村が頭を下げ、背を向けた。
「あ、お洋服を……」
「大丈夫です。それより清掃のほうを優先してください」
 南野を遮った三村が、笑いながら言った。
「すみません。明日までにはパステルをきれいにしてお届けしますから」
 南野は三村の背中が見えなくなると、鬼ごっこが再開しないうちに素早く屈みパステルを捕まえた。
「わかってくれ。できるならそうしてやりたいけど、お前を飼う時間の余裕はないんだよ」
 南野はパステルの両腋を抱え向き合うと、諭すように言い聞かせた。
 パステルの黒く円らな瞳が、南野をみつめた。
 南野は、視線を逸らした。
「三村さんは、いい人だ。僕なんかといるより、きっとお前を幸せにしてくれるよ」
 南野は、顔を背けたまま言った――歯を食い縛り、胸を刺す鋭い痛みに抗(あらが)った。

プロフィール

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無闇地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『黒い太陽』『枕女王』など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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