よみもの・連載

永遠の犬

第十二回

新堂冬樹Fuyuki Shindou

 お前は正気か?
 自問の声がした。
 すぐに津波のように後悔の念が押し寄せてきたが、もうあとには引けなかった。
 南野は、土壇場でのキャンセルも致し方ないと思わせる言い訳を考えることに意識を集中した。
『それは、どういうことでしょうか?』
 島内が困惑しているのは、イントネーションの乱れでわかった。
「実は、妻が病院に運び込まれまして……これから緊急手術なんです」
 咄嗟(とっさ)のでたらめ──まさか、犬の容態が心配で離れられないとは口が裂けても言えない。
『ご病気ですか?』
「車に撥ねられたと連絡が入りました。私もこれから病院に向かいますので、詳しいことはまだわかりません」
 病気より事故のほうが相手に与えるインパクトが大きいと、南野は判断したのだ。
 さすがの近江も、交通事故で病院に搬送された妻を後回しにしろとは言えないはずだ。
 しかし、安堵(あんど)するにはまだ早い。
 責められることはなくても、近江の感情までコントロールすることはできない。
 たとえやむをえぬ理由でも、近江が南野に面会を急遽(きゅうきょ)キャンセルされたという事実に変わりはない。
 気分を害したことはおくびにも出さず、もっともらしい理由をつけて「刑事一直線」の出演オファーを断ってくる可能性は十分に考えられた。
 わかっているなら、なぜ行かない?
 脳内で響き渡る自問の声に、南野は答えることができなかった。
 損得で考えれば、南野の選択はありえなかった。
 苦労して手繰り寄せた千載一遇のチャンスを、自らの手で握り潰そうとしているのだ。
『それは大変ですね……しかし、困りました』
 島内のため息が、受話口越しに聞こえてきた。
「近江さんには後ほど、私からお詫(わ)びの連絡を入れます。本当に申し訳ありません」
『わかりました。近江にも伝えておきます』
 沈んだ声で言い残し、島内が電話を切った。
 南野は大きく息を吐きながら、額に浮いた汗を手の甲で拭った。
 本当に、これでよかったのか?
 また、自問の声がした。
 やはり、南野は答えることができなかった。

プロフィール

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無闇地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『黒い太陽』『枕女王』など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

Back number