よみもの・連載

永遠の犬

第三章 第一回

新堂冬樹Fuyuki Shindou

 薄桃色の景色が、視界の端をスローモーションのように流れてゆく。
 満開のソメイヨシノが咲き誇る早朝の目黒川沿いを、南野(みなみの)はパステルとパトロールしていた。
 パステルの気分転換のために、今朝はいつもの並木道とは違うコースを選んだ。景色が変わることで、パステルに刺激を与えられると思ったからだ。
 パステルが抗癌(こうがん)剤治療を始めて半年が過ぎた。
 季節は四月に入っていた。
 抗癌剤の投与も十回目を終え、パステルの悪性リンパ腫の九割近くは消えていた。
 残る一割は原発巣の膀胱(ぼうこう)の腫瘍だけだ。
 膀胱の腫瘍が消失したら、念願の完全完解を迎える。
 完全完解は完治と違い再発の可能性は高いが、それでも夢のようだった。
 パステルの身体(からだ)から、一時的でも癌がなくなるのだから。
 だが、原発巣だけあって膀胱の腫瘍はしぶとく、抗癌剤の効果がなかなか出なかった。
 パステルが立ち止まり、花壇に植えられたパンジーの香りを嗅いでいた。
「春を感じるか? お前の嗅覚は人間に比べて凄(すご)いから、刺激が強過ぎるんじゃないか?」
 南野は腰を屈(かが)め、パステルの背中を撫(な)でながら語りかけた。
 掌(てのひら)に伝わるごつごつとした感触が、南野の口元から笑みを消した。
 背中と脇腹に浮く背骨と肋骨(ろっこつ)、すっかり抜け落ちた飾り毛、筋肉が落ちた太腿(ふともも)、細くなった四肢……パステルの身体は、正視するのがつらいほどに衰えていた。
 パステルを衰えさせているのは悪性リンパ腫ではなく、抗癌剤の副作用だった。
 パステルの命を救うために投与した抗癌剤が、皮肉にも命をおびやかしている。
 体重も健康なときの三十四キロから二十四キロに減っていた。
 七十キロの成人男性にたとえると、五十キロになったのと同じだ。
 二、三ヵ月前……食欲が落ちてからもドッグフードを三分の一は食べていたが、いまは一口、二口が精一杯だった。
 食欲が落ちただけでなく免疫力が低下しているので、風邪を引きやすく下痢や嘔吐(おうと)も日常だった。
「よく頑張ってるな。憎たらしい癌は、ボス以外はやっつけている。ラスボスを噛(か)み殺せば、昔みたいにたらふくご飯を食べて、ビュンビュン風を切って走れるぞ」
 南野は、明るい口調で言った。
 パステルが目ヤニに囲まれた瞳で南野をみつめた。
 鼻孔からは洟(はな)が垂れていた。

プロフィール

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無闇地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『黒い太陽』『枕女王』など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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