連載
金四郎と九十郎
第一編 養子と実子 多田容子 Yoko Tada
 九十郎は白湯を飲み干すと、湯飲みを盆に置いた。
「では、私はこれで失礼する」
「忙しいのね」
「ちとな」
 出ようとすると、お珠は露地口まで送ってきた。
「あまり気を落とさぬよう」
「ええ」
 九十郎は、涙目のお珠に背を向け、歩き出した。



 その後、九十郎は銀春禅風のもとへ赴き、稽古を受けた。能の一部を短く切ってまとめ、面や装束なしで舞う仕舞を習っている。
「今の手をもう一度」
 禅風は、九十郎の動きを見ながら言った。五十ばかりで、声は渋くかすれ、ただ座っているその姿が、人生五十年のはかなさを表わしているかのようである。それでいて、眼光は鋭く、たとえ面の奥からであっても、千里の向こうを刺し貫きそうな勢いがうかがえた。
「もう一度」
 九十郎は立って、前へ扇を差し上げる動きを繰り返した。能の舞いには型があり、構えや手の上げ下げ、開き、足の運びなどを要(かなめ)とする。ほぼ終始摺(す)り足で、体(たい)は崩れず、踊りのように派手な動きはあまりなかった。
 今日は同じ型を何度も何度も直されている。すでに、かなりの時が経っていた。
「何じゃ、その手は。扇の先がまるで定まらん」
「申し訳ございません」
「今日はもう置け」
 そう言われ、九十郎はゆっくりと座し、扇を床に据えて、禅風に手を突いた。
「ありがとうございました」
 禅風は、九十郎の手元へ厳しく目を付ける。
「若い時分は、むら気のあるものだが、それにしても先日の御前舞いとは雲泥の差。何ぞ心にかかることでもあるのか」
 九十郎は迷ったが、正直に白状した。
「昨日、存じ寄りの若い者が亡くなり、今朝、それを知りました」
「病か」
「身投げらしゅうございます」
 言ってしまうと、顔に憂いを表わすことができ、幾分、身体が落ち着いた。
「その者の心が、そなたには分からぬのじゃな」
「……はい」
「理で考えるな。感じよ。能など舞っておる時ではない、と考えるのは間違いぞ。今ここにこそ、幽玄の彼方への門がある」


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〈プロフィール〉
多田容子(ただ・ようこ)
1971年生まれ。京都大学経済学部卒業。99年、剣豪小説『双眼』でデビュー。柳生新陰流、小転中伝。2004年、兵庫県芸術奨励賞受賞。著書に『柳影』『月下妙剣』『柳生平定記』『諸刃の燕』『おばちゃんくノ一小笑組』シリーズ、『自分を生かす古武術の心得』『新陰流 サムライ 仕事術』などがある。
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