連載
金四郎と九十郎
第一編 養子と実子 多田容子 Yoko Tada
 九十郎は、胸中がひっくり返ったような心地がした。徳之助のことを考えると、じっと悲しみにふさぐことが相応しいという気持ちがどこかにあったのだ。能こそが、この世とあの世をつなぐ芸であるということを忘れていた。
「私が浅はかでございました」
 禅風は厳しい姿勢と目を、やや解いた。
「人は死しても無限。喜びなく、憂いなしじゃ」
 その声の響きを、九十郎は胸に収めて味わった。禅問答のような分かりづらい言葉を、ただ言い放ったようにも聴こえたが、なぜかゆっくりと、腹の芯へ温かいものが沁(し)みてくる。確かに、死は終わりではないのかもしれない。目に見えないものも、どこかには必ず在り続けるのだ。
「実はその者、お珠殿の唄の弟子でございました」
 九十郎の口は、自然に開いていた。
「そなた、まだあのような娘と会うておるのか」
「はい。お珠殿は純一(じゅんいつ)に、芸の道に生きたいだけのことと存じます。何も悪いことなどはしておりません」
「男ばかりの能の世界は偏(かたよ)っておる。そう申して家を出たのじゃぞ」
「女であれば、そう感じるのも無理はございません」
 九十郎は譲らずに述べた。
「先生、どうかお珠殿を許してください」
「ならぬ」
 禅風は吐き捨てた。
「あれは一人娘ゆえ、甘やかし過ぎた。ゆえに、この家で女が果たすべき役目を、何も心得ぬ者になってしもうたのじゃ」
 禅風は平素、流れる水のように、とらえどころのない心をもつ老師であるのに、何ゆえ己のこととなると、こうも頑(かたく)ななのかと、九十郎は不思議に思った。
 九十郎が初めてここに来たのは、五年前のことだ。それ以前にも、禅風の能を観たことはあった。武士は能や仕舞に接する場が少なくないが、子どもにとっては、いささか退屈なものである。ただ、翁(おきな)の面をかぶって足を踏む禅風の姿は、なぜか異様なものと感じられ、幼い目にも焼き付いた。舞台を観た夜から、九十郎は幽霊の夢をみて、幾晩もうなされたのだ。
 このため、十三歳の折り、朋輩(ほうばい)が禅風に弟子入りしたいと言い出した時には驚いた。志ある若者らしく、とにかく一流のものを習って、身の糧にしたいという話だった。しかし、その朋輩も、本心では禅風をかなり恐れているらしかった。それで、銀春家を訪ねる時、九十郎についてきて欲しいと言ったのだ。気は進まなかったが、悪夢のことは誰にも話しておらず、平静を装って同行を決めた。
 九十郎が行くと言い出すと、他にも行きたいという仲間が三名ほど現れて、結局、元服前の青侍が五人、押しかけることとなった。とにかく禅風の人気は尋常ではない。子どもが望まずとも、親が弟子入りさせたいということもある。大人の弟子も来るから、志願者は連日、絶えることがないほどだ。


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〈プロフィール〉
多田容子(ただ・ようこ)
1971年生まれ。京都大学経済学部卒業。99年、剣豪小説『双眼』でデビュー。柳生新陰流、小転中伝。2004年、兵庫県芸術奨励賞受賞。著書に『柳影』『月下妙剣』『柳生平定記』『諸刃の燕』『おばちゃんくノ一小笑組』シリーズ、『自分を生かす古武術の心得』『新陰流 サムライ 仕事術』などがある。
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