連載
金四郎と九十郎
第二編 掏摸(すり)と黒津屋2 多田容子 Yoko Tada
  七

 月が変わり、九十郎は、老中、戸田能登守(のとのかみ)の屋敷に招かれていた。譜代大名の内でも名族の江戸藩邸とあって、庭へ張り出すような形で、立派な能舞台が設けられている。
 舞台裏に当たる鏡の間では、戸田家の嫡子、正四郎(せいしろう)が、「野守」という演目の後(のち)シテ、鬼神の役を演じるため、金糸の入った五色の装束を纏っている。この衣裳は嵩(かさ)もあり、模様も極めて豪華だ。骨太で中肉中背の正四郎は、すべてをうまく着こなしていた。古い塚に眠る鬼神を演じるには若いが、濃い眉と目元に、役に入ろうとする勢いが見えた。
 九十郎は後見として、着付けを手伝っていた。自身は黒紋付という地味な形(なり)だ。後見は演者を助け、表舞台では後ろの隅に座し、道具を整えたり、装束の乱れを直したりする。すべての流れを見届け、万一、演者に何か事があれば即、代役まで務めるという立場だ。
「そろそろ、髪と面をお着けあそばされますか」
 舞台が迫り、固くなっている正四郎に、九十郎はそれとなく声をかけた。
「うむ」
 今日は内々の宴ではなく、将軍家の姫君がご覧になるという大舞台なのだ。鬼の髪は赤く盛り上がったもので、面は恐ろしい形相だ。それを、九十郎は淡々と着けてゆく。
「面のお加減はいかがです」
 紐を結びながら、九十郎は尋ねた。
「うむ、よい」
 間もなく、舞台は本番を迎えた。
「野守」とは、旅の山伏が春日野にある鏡のような池の水に目を留め、野の番をする老人に謂(い)われを尋ねるという話だ。「この池は、朝夕、私のような野守の姿を映すので、『野守の鏡』と呼ばれているが、本当の野守の鏡とは、昔、この野に住む鬼が持っていた鏡のことです」。そう語る老人に、興味をもった山伏は、野守の鏡をぜひ見てみたいものだと言う。しかし、老人は、「鬼神の鏡を見れば恐ろしいので、この水鏡を見なさい」と言って、いなくなってしまう。
 ここまでが、前シテと呼ばれる前半だ。今回は、この続きの物語を、正四郎が演じることになっている。後半は、消えた老人が、鬼神の姿となり、天界から地獄まで、すべてを映し出すという鏡を持って現れる。そのすべてを見せた後、鬼神は大地を踏み破って、姿を消すという演目だ。
 正四郎が舞台へ上がった。かなり稽古を重ねたらしく、綺麗な足運びや手さばきを披露している。若者らしい力強さもあった。
 曲が進むにつれ、正四郎は更に乗ってきた。大きな鏡を豪快にかざしつつ、舞台を縦横無尽に巡る。後ろで見守る九十郎は、野守の鏡が映し出した地獄の様を、半眼(はんがん)に保った瞼の裏に想い浮かべた。自らも、共に舞う心持ちで、舞台に広がる鬼気を味わう。
 その時──。
 正四郎の腕に、わずかな力みが生じた。途端、鏡が手元から滑り落ちる。
「お続けくださいっ」
 落ちる鏡を見ようとした正四郎へ、九十郎は小さく鋭い声をかけた。同時に、正四郎の袖の下へと進み出る。腰を低く保ったまま、膝行(しっこう)する形だ。それが、信じられぬほど速い。九十郎は鏡を受け止めていた。
 正四郎は舞いを続け、くるりと一転して足を踏む。腕を構えた瞬間、九十郎は鏡をすっと正四郎の手の内へ差し入れた。その流れは、あたかも地の底を映した鏡が、ひらりと天へ翻って、鬼神へ還(かえ)ったかのように自然だった。正四郎はそのまま、堂々と地を踏み破り、「野守」の一番を華やかに舞い終えた。
 後見の九十郎は、一足先に舞台を降りて、主役を迎える。正四郎は、汗だくになっていた。九十郎は鏡の間で一礼すると、静かに髪と面を外した。正四郎はただ荒い息をついて、九十郎を見る。九十郎は落ちついた呼吸で、装束を解いていく。次第に、正四郎の息も同調するかのように整ってきた。


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〈プロフィール〉
多田容子(ただ・ようこ)
1971年生まれ。京都大学経済学部卒業。99年、剣豪小説『双眼』でデビュー。柳生新陰流、小転中伝。2004年、兵庫県芸術奨励賞受賞。著書に『柳影』『月下妙剣』『柳生平定記』『諸刃の燕』『おばちゃんくノ一小笑組』シリーズ、『自分を生かす古武術の心得』『新陰流 サムライ 仕事術』などがある。
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