よみもの・連載

和三郎江戸修行 激烈

第一章 迎  撃

高橋三千綱Michitsuna Takahashi


 御厩河岸(おんまやがし)の東側、渡し場まで全速力で走ってくると、さすがに息があがった。
 すでに船着場の小屋は灯(あか)りが消えている。そこから北に向かって大名の下(しも)屋敷や旗本の屋敷が連なっており、人の気配は少しもない。
 月は雲間から出たり隠れたりしている。風が大川(おおかわ)から渡ってくる。夜の中に潜んだ、肌を刺すような冷ややかな尖(とが)った風が、殺気を孕(はら)んで通り過ぎる。
 息を整えて歩きながら、季節の移りの早さに和三郎(わさぶろう)は驚いていた。故郷の越前野山(えちぜんのやま)であれば刈り入れが済み、農家はほんのひとときの安らぎを覚えているはずである。屛風山(びょうぶさん)にはそろそろ初雪が降る。
 北本所(きたほんじよ)の町家の商家も大戸を下ろしている。二階の狭い窓からたまに小さな灯りが漏れている商家もある。その商家の並んだ一角から、提灯(ちようちん)を下げた中間(ちゆうげん)を連れた武士がことりと現れた。
 小柄で体を傾けて歩く武士は、暗い中から現れた若い侍を見上げて、たじろいだように道を空けた。幸い、三人を斬ったばかりの、和三郎の着流しにかかった返り血までは気づかずに去っていった。
「おい、犬、こっちだ」
 和三郎が走るのをやめると、野犬は傍(そば)を歩調を合わせて歩き出した。その犬に向かって、和三郎は手を振ると、北本所と寺との間の通りを東に曲がった。もう一つ町が出てきて、そこを過ぎると土屋(つちや)家の下屋敷になる。
 土塀の角に身を潜めて、和三郎はあたりを窺(うかが)った。外の小路(こうじ)にも塀の内側にも人の気配はない。
(刺客に雇われた者どもも、一人あたり一両の報酬では、そうがつがつして襲ってくることもなかろう)
 すでに四ツ時(午後十時頃)は過ぎている。沙那(さな)はもう眠っているはずだ。他の女中もそうだろう。
 家士(かし)の四人の侍どもは組屋敷に戻ったか、小姓なら屋敷のどこかで直俊君(なおとしぎみ)を寝ずの番でお護(まも)りしているはずだ。下屋敷を取り仕切っている国分正興(こくぶまさおき)老人は、組屋敷の外に家を借りていることもありえる。いずれにしろ土屋家家来が四人しかいない屋敷を管理しているのでは、大した身分ではない。
 和三郎はそっと門の戸口を叩(たた)いた。もし門番が脇の門番小屋にいればすぐに気づくはずだ。
 だが、恐らくは口入れ屋から日当二百文程度で雇い入れた怠け者の門番では、今頃は安酒を抱え込んでご機嫌になっているのだろう。
 和三郎は塀を回り、どこか乗り越えられるところはないかと調べた。
 塀に崩れたところは見当たらない。
 路地の突き当たりは寺の塀になっている。そこに人が一人通り抜けられる幅を見出(みいだ)した。和三郎は被(かぶ)さってくる樹木を払いながら先に進んだ。
 真っ暗である。
 寺はばかにだだっ広い。その寺の塀と土屋家下屋敷の間に大木が植わっている。垂れた樹木が闇の中に溶け込んでいる。和三郎は額を枝にぶつけて大木があることを知ったのである。
「おい、犬、ちょっとこい」
 和三郎はそう呼んだが、野犬はどこかに潜り込んだものとみえてやってこない。
「おい、一太郎(いちたろう)」
 即興で野犬に名を付けて呼んだ。どういうわけか野犬の気配がした。
「おまえは太郎の中で一番の犬だ。だから一太郎だ。さ、こっちにこい」
 野犬の強い臭いが鼻を突いた。
 和三郎は犬を片腕に抱きかかえると、塀の上に乗せた。自分は大木の幹を摑(つか)んでよじ登った。

プロフィール

高橋三千綱(たかはし・みちつな) 1948年1月大阪府生まれ。サンフランシスコ州立大学、早稲田大学中退。74年「退屈しのぎ」で第17回群像新人賞、78年「九月の空」で第79回芥川賞を受賞。青春小説や時代小説、またゴルフに関する著作も多数ある。著書に『お江戸の用心棒』『明日のブルドッグ』『空の剣 男谷精一郎の孤独』ほか多数。

既刊紹介

和三郎江戸修行 脱藩

和三郎江戸修行 脱藩 時は幕末。越前野山土屋家中はお家騒動の気配をはらんでいた。小身の家臣の三男坊・岡和三郎は、無駄飯食いの立場だったが、剣の腕には覚えがあった。ある日、藩重役から江戸での剣術修行を命じられる。しかも脱藩して密行せよ、と。大枚の路銀をせしめ、視覚に襲われるも旅立つのだった。修行人宿に泊まりつつ江戸を目指す東海道中、若き剣客を待ち受ける運命やいかに……。傑作時代小説シリーズ幕開き。

和三郎江戸修行 開眼

和三郎江戸修行 開眼 浜松城下で坂本竜馬と別れ、岡和三郎は幕末の東海道を一路、江戸に向かっていた。越前野山藩から命じられた脱藩密行での剣術修行。宇津谷峠の雨宿りで横井小楠と出くわし、酒を呑んではからみ半分のご高説をうかがいながらの道中となってします。若き剣客の心を時にはあたため、時には奮い立たせる出会いは、さらに彼を成長させていくのだった。傑作青春時代シリーズますます熱い第二弾。

和三郎江戸修行 愛憐

和三郎江戸修行 愛憐 四万三千石・土屋家の世嗣である直俊君を密かに護れ。それこそが和三郎に下された真の密命だった。それゆえに江戸でも敵に襲撃され、さらには父の因縁により格上の相手から果たし合いまで挑まれて、半死半生に追いやられてしまう。だが、許嫁の沙那や道中で出会った倉前秀之進、坂本竜馬など味方の存在が和三郎を生かし、剣を磨かせてゆく――。傑作青春時代シリーズ第三弾。

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